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本能寺の変の直前、家康の饗応役をはずれ、ライバル・秀吉への援軍を命じられた明智光秀。このとき、信... 本能寺の変の直前、家康の饗応役をはずれ、ライバル・秀吉への援軍を命じられた明智光秀。このとき、信長は、丹波・近江志賀郡の領地を召し上げ、まだ敵国である出雲・石見を与えると通告する。信長を深く怨んだ光秀は、ついに謀反を決意する……。 本能寺の変につながる動機「怨恨説」の根拠として、小説やドラマでもおなじみのシーンだが、この話はほんとうなのか。また、光秀の心中はどのようなものであったのか。 ※本稿は小和田哲男著『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。 秀吉の応援か、毛利の後方攪乱か 天正10年(1582)5月15日、光秀による家康・梅雪の接待・饗応がはじまったその日、秀吉から信長に急報が届けられた。 秀吉はこの年4月14日に、備前岡山城の宇喜多秀家とともに備中に入り、宮路山城・冠山城などを落とし、清水宗治の守る備中高松城にせまり、4月27日から高松城を囲み、近くの
2019/10/08 リンク