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東光寺(禅宗)の住職の子として生まれる。岩手師範学校を卒業すると、師範在学中は排耶書(反キリスト教... 東光寺(禅宗)の住職の子として生まれる。岩手師範学校を卒業すると、師範在学中は排耶書(反キリスト教的な書物)に親しんだが、教職についてすぐに入院して聖書に接して、内村鑑三の『基督信徒の慰め』や『求安録』を愛読する。[1] 日露戦争の際、内村に影響され本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。心配した内村が花巻を訪れ説得し斎藤は翻意するが、すでに県当局からにらまれ、小学校教員の職を失った。その後は新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。画家の中村不折は彼を「花巻のトルストイ」と呼んだ。晩年多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村に終生尽くし、1930年(昭和5年)の内村の死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。 同郷の出身で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があり、1924年(大正13年)の日記には賢治の