会期:2024/9/27~2024/10/6

会場:THEATER 010
公式サイト:https://010bld.com/mirage-transitory/

(前編から続く)

会場の空間は舞台から客席まで、黒く塗りつぶされていた。舞台の背景は緩やかな三次曲面を形成し、微細な陰影のグラデーションをその表面に湛えている。床は客席に向かって一部が大きく張り出し、そこには小さな穴がぽっかりと口を開けている。黄味がかった照明がじっくりと照度を上げるなか、一人また一人とダンサーが客席から舞台へと進み出ていく。ダンサーたちは演色性の低い照明と薄く立ち込めるスモークによってどこか実在感を欠き、その歩行は順行と逆行、散乱と整列を繰り返しながら続く。異界から投影される影絵もしくは幻灯機のように。汗をぬぐい、肌を光らせるダンサーたちはやがて、舞台中央に張り出した穴へと吸い寄せられていく。互いに手を取りながらそれを取り囲んだダンサーたちは、一個の蠢く塊へ姿を変える。それは棘皮動物、高速再生/逆再生された開花、あるいは複雑な工業機械の動きにも見えるが、しだいに激しさを増し、ついには離散する。個体と全体、共鳴と不和、関係性と無関係性、本作を貫く「変容」のエッセンスがそこには充満している。

やがて舞台は、乳白色の霧、無数の色彩を放つグリッター、雨のように滴り落ちるオイル、二重螺旋を描きながら立ち昇る水といった素材たちによってめくるめく展開を見せる。ジャレと名和の舞台はいずれも、こうした演出の一つひとつが数えきれないほどの寓意を帯びているのだが、その参照元を都度推測することにあまり意味はないだろう。そこに意味が宿るとすれば、それは鑑賞者が「何かを思い出さずにはいられなくなること」自体である。

クライマックスでは、穴の前で二人のダンサーが絡み合い、その背後に六人のダンサーが積み重なった塔が姿を現わす。ダンサーたちの肌を彩っていたグリッターは互いに混じりあい、ブロンズめいた複雑な反射を見せる。ダンサーたちの手足が開閉を繰り返し、塔と見えたものは即座に巨大な裂け目へと変わる。興味深いことに、舞台上の裂け目は実はこれだけではない。舞台の背景をなす三次曲面は緊密に張られたゴムバンドによるものであり、その間を通じてダンサーは舞台の表裏──いわば生と死、存在と非存在の境界──を行き来しているからだ。加えて、ゴムバンドが描き出す黒い平行線の群は、重力の可視化をテーマとする名和の代表的なペインティングシリーズ《Direction》をも想起させるだろう。世界をあまねく満たす重力の雨の中に生命の塔が立ち上がり、その裂け目を縫って無数の生と死が繰り返される。生命の多様性が生存のためにある以上、私たちは儚くなければ多様さに至ることはなく、その悲劇こそが美の条件となる。

ジャレによる振付は、一見ランダムに見えつつも完全な調和を成している。いや、むしろそれが厳密に設計されていることは誰の目にも明らかであり、その本質は、計算を通じて計算不可能なものの輪郭を素描することに他ならない。無数の素材を振り付ける名和の舞台美術にも、同様の指摘が可能だろう。名和の作品の多くは、仕組み自体を言葉にすれば非常にシンプルなのだが、それがつくりだす状態のもっとも適切な在り方の探索に多くが割かれている。科学実験的なまでの厳密さによって制御された物質やシステムが、ある瞬間、現象へと至る。それは相転移のような質的な変化だ。ジャレと名和の試みとはいわば、芸術と工芸と科学がまだ分たれる前の、創造を通じて世界の複雑さに触れるためのアルスなのだ。

最後に少し、連想を書き加えておこう。蜃気楼にはいくつもの別名があるが、そのひとつである「海市」を思い出すならば、それは即座に磯崎新によるICCでの企画展「海市──もう一つのユートピア(英題:The Mirage City – Another Utopia)」へと接続される。これは中国・横琴島南の海に人工島をつくる計画に関する展示であり、情報化時代におけるユートピアの可能性を鑑賞者とともに探索する試みだった。《MIRAGE [transitory]》が公演された「THEATER 010」は博多・中洲のほとりに立地しているが、奇しくも中洲もその起源においては、福岡藩が福岡と博多をつなぐために埋め立てた人工島である。今や、国を生むことは技術的にはそれほど難しくない時代となった。ユートピアの大地は不定形のエネルギーを湛えて踊っている。ところで、かつてロラン・バルトは「アトピーはユートピーにまさる」と述べた★。ユートピアが「どこでもない場所」であり、現実に対する否定や拒絶を帯びていたのに対し、アトピーは「どこであっても構わない場所」、すなわち漂いうつろうものとしての自由を有している、というわけだ。アレルギーもまた表皮の感応であり、それは蜃気楼のように現われては消えていく。ジャレと名和がつくりだした変容の場、それはアトピーであると同時にユートピーでもありうるような瞬間にほかならない。

鑑賞日:2024/9/29(日)

★──ロラン・バルト(佐藤信夫訳)『彼自身によるロラン・バルト』、みすず書房、1997