会期:2024/11/06~2024/11/10
会場:THEATRE E9 KYOTO[京都府]
公式サイト:https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20241106

京都を拠点に、劇作家・演出家の田辺剛が代表を務める劇団「下鴨車窓」のレパートリー作品。本公演では、2016年の初演後、各地での上演を積み重ねてきたAチームに加えて、「女子大生の友人2人」を姉妹に設定変更して新たな俳優陣を迎えたBチーム、別団体の演出家が演出するCチームと、3バージョンが上演された。本稿では、Aチームの上演を扱う。

舞台は、地方都市の町はずれにある古いアパート。経済的に苦しい大学生の結は、学費を稼ぐため、大学の友人の理奈に「高額のバイト」として違法植物の栽培を斡旋される。結が暮らす和室の8畳は、ずらりと並ぶ鉢植えの植物に占拠され、栽培用の照明が吊り下がり、「温室」と化している。こもる湿気と、独特の匂い。「他人を部屋に入れてはいけない」という「マニュアルの規則」を結が守っているか監視するために、理奈がたびたびアパートにやって来る。天然気味の性格で警戒心の薄い結に対し、現実的な理奈は、高額のバイト料の預金管理にまで口を出すなど、過干渉といえるほど結の行動をコントロールしようとする。「結が失敗してバレたら自分の人生も終わり」と怯えつつ、「マニュアル通りにしていたら楽に稼げるから」と軽いアルバイト感覚の理奈。植物の世話に日々明け暮れ、孤独を訴える結を、「親友の私がいるじゃない」と理奈は抱きしめ、共依存的な関係が示される。水商売のバイトもしている理奈の背後には、違法植物栽培バイトの元締めである「加藤」という男の存在がほのめかされ、肉体関係にあるらしい理奈は加藤から「逃げる」ことができず、切迫感や怯えを抱えている。

[撮影:松本成弘]

一方、結の背後にも、劇中には登場しない「男」の存在がある。アパートの階下に暮らす老人を結は「おじいちゃん」のように慕い、米などの差し入れを頻繁に受け取っている。だが、老人が孤独死し、遺品整理に来た孫の青年を結は部屋に入れてしまう。ルール違反に激怒する理奈に対し、「パクチーを育てている」と嘘をついたと弁明する結。だが、嘘は、もうひとつの「秘密」の露見とともに見破られてしまう。結が実家に帰省したクリスマスイブに、アパートの番をしていた理奈を青年が訪ね、祖父の「日記」に結の行動がストーカー的に記されていたことを打ち明ける。部屋で栽培している植物の「写真」もあったこと、園芸が趣味で植物に詳しく、パクチーではないと気づいていたこと。さらに、着替えや入浴中の結の「盗撮」もあったこと……。「善人」として結を見守っていた好好爺の仮面が剥がれ、結もまた男性から間接的な性的支配を受けていたことが明かされる。

[撮影:松本成弘]

結と理奈の共犯関係を知らない青年は、「理奈さんも犯罪に巻き込まれたらいけないから打ち明けた」という「善意の心配」の一方、「秘密を一人で背負うのはきつくて」というエゴもさらけ出す。二重化された秘密の共有が板挟みとなって理奈を襲う。追い込まれた理奈は、バレたことを電話で加藤に告げる。脅迫的に反復されるドアのチャイム音とノック。そして、結がアパートに戻ると、植物の鉢が持ち去られて空っぽになった部屋に、顔を殴られた跡のある理奈がいた……。

[撮影:松本成弘]

「闇バイト」に手を出した大学生の貧困と孤独と、共依存的な心理を描いた作品。表面的にはそう理解できる本作だが、「温室」という舞台装置やメタ演劇性を踏まえると、より深い射程が浮かび上がるのではないか。劇中、結と理奈が育てていた植物の名前は具体的に明言されず、曖昧に抽象化されている。彼女たちは何を育てていたのか。あるいは、彼女たちの栽培行為は何のメタファーなのか。ポイントとなるのが、屈託のない性格の結が理奈に向けて強く感情を吐露する台詞だ。「これを始めてから、私には自由がない」。毎日決まった時間に水をやり、照明を調整し、換気扇を回し、肥料を与え、虫がわいたら駆除し、収穫すると再び種まきをする……。終わらないサイクルに巻き込まれてしまった事態が日常と化す。これは、再生産・ケア労働のメタファーだ。料理、生活必需品の買い出し、洗濯、掃除、ゴミ出し、子どもの看病……。終わりも休みもなく、同じサイクルが延々と繰り返される日々。結は、「自由を奪った」植物に対し、「お水の時間だよ」と愛着をもって話しかけ、アンビバレントな感情を抱きながらケアをしている。

ビニールの温室を思わせる舞台装置も示唆的だ。シースルーであるにもかかわらず、彼女たちがその密室の中で行なう行為は「表に見えてはいけないもの」として隠されている。結も理奈も、たびたびカーテンを開けて窓の外をのぞき、「外の世界」へ憧憬的な眼差しを向ける。だが、窓の外から聴こえるのは、不穏なサイレンや、だんだん大きくなる「カーン、カーン」という工事現場のような金属音の反復だ。抑圧の響きのもと、彼女たちは、誰にも見えないまま、サイクルの反復に孤独に耐え続けねばならない。唯一二人に向けられるのは、男性からの性的な支配の眼差しだ。

高額で換金される違法植物の栽培と、「愛情や母性」の美名によって家庭内で無償でなされる再生産労働。報酬をめぐる対照性も、女性が家庭内で従事する再生産・ケア労働の歪さを浮かび上がらせる。結の暮らす部屋が、文字通り「植物に占領されている」点も重要だ。再生産労働の現場においては、「お母さん(主婦)の部屋」がない事態そのものが透明化されているからだ(ただし、水商売のバイトもする派手な服装の理奈が「私は植物の世話に向いてないけど、結は向いてる」と繰り返す台詞には、「女性の性的奔放さ」と「家庭内の再生産労働に向いている/向いていない」を結びつける作り手側のバイアスがあるのではないか)。

結が「透明な密室」で行なう栽培行為を、再生産労働のメタファーとして見立てること。あるもの(もしくは不在のもの)を、別のものに見立てる演劇の想像力は、戯曲のなかにメタ演劇として多重に書き込まれている。加藤から支給された栽培用の照明に加え、「大学の演劇部から借りてきた舞台用の照明」まで部屋に設置する結。入れ子状の「舞台」として照らされた「温室」では、結が青年を部屋に入れたことを嘘でごまかすため、理奈と結が口裏合わせの「台本」を読んで練習し、「不在の加藤」を相手に嘘のお芝居を演じる。また、「想像」も本作のキーワードだ。バレたことを電話で告げられた加藤が激しくドアをノックする音が響くなか、切羽詰まった理奈は想像のクリスマスパーティーのモノローグを繰り広げる。「結と一緒に、モミの木を山に植えに行こう。見つけた人がびっくりして、誰がこんなところに植えたんだろうと想像するはず」。また、理奈が小学生の頃、朝顔を枯らしてしまった思い出が、冒頭と終盤で繰り返される。枯れた朝顔を、想像の中で育てて観察日記を書いたのだと。

[撮影:松本成弘]

ラストシーンでは時間が巻き戻り、空っぽの結の部屋に(再び)植物の鉢が持ち込まれる。結が栽培を始めた夏、部屋に満ちる明るい光。「マニュアル通りにすれば簡単だから、少しずつ増やしていこう」と鉢を並べる理奈。「私たちの緑あふれる輝かしい未来だよ」と。暗い閉塞感が支配する本作で、このラストシーンは「彼女たちにもかつてこんなに幸福な時間があったこと」を肯定的に描くように見える。だが、「時間の巻き戻し」の操作は、すべての鉢が処分され、いったん空っぽになった部屋に、再び鉢が持ち込まれる反復のサイクルの出現でもある。そしてそれこそが、再生産労働の終わりのないサイクルなのだ。

[撮影:松本成弘]

なお、「貧困の女子大生が犯罪に手を染める」という社会問題を扱う本作だが、結たちが違法バイトを始めた理由は「学費を稼ぐため」と一言説明されるのみで、家庭環境などの構造的な背景については触れられない。だが、貧困の問題そのものにジェンダーが深く関わっている構造が言及されていれば、「若い女性の貧困」という本作のテーマはより深みを増したのではないか。例えば、「親が準備した子どもの進学資金」を男の兄弟に優先的に使ってしまったという理由が考えられる。また、地方から首都圏に進学する学生を安い家賃で受け入れる「県人寮」の6割余りが男子学生専用であり、調査対象の約半数の自治体が男子寮しか設置していないという調査結果も出ている★。単に「彼女たちの家庭の経済状況」だけが問題なのではなく、大学進学をめぐる構造的な格差が存在する。「透明な密室」で不可視化されているのは何か、再生産労働のメタファーに加え、ジェンダーと貧困の構造的問題についての掘り下げがあれば、本作の射程はさらに広がっただろう。

★──「地方からの大学進学 都内周辺「県人寮」の6割余が男子学生専用」 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240709/k10014506411000.html
「県人寮の67%が男子専用、東大生の団体が調査 「深刻な男女格差」」 https://www.asahi.com/articles/ASS792207S79UTIL016M.html

鑑賞日:2024/11/06(水)