洗礼を受けていないと宗教は語れないか?(追記あり)

ええと、カトリックなんてタグをつけていますが、ほんとは[宗教]とした方がいいと思われ。・・という自分突っ込みを先ずしておく。

さて表題。
鰤さんからまぁ色々コメント貰ったり、トラバ貰ったりしていたのですが、そこの信者じゃないとほんとにその問題は扱えないの?ということについて書いてみることにした。

答えは「然りであり否である」ってな感じですかね?

先ずはなんでそういう話になったかの経緯をざっと説明しとくと、鰤さんが前のエントリで宗教者として「いずれの信者でもない」なことを書いたことに対し、突っ込みを入れたことに起因するんだが、(個人的なことなので「東」ぼやかしておいたんだが・・・)とにかくキリスト教の正教(東方教会)の啓蒙者(ローマ・カトリック等でいう所の洗礼志願者)という立場であることは以前から知っていて、その立派な立場があるではないか?ということを指摘した。

それを受けて、トラバが来たんだが・・・これ↓

http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090206/p1

なのでお返事したいんだが相変わらず、コメ欄は表示され書けるはずの窓にカキコが出来ないという、なにやらあやしからんパソ小人の技術的な諸問題*)によって、コメ出来んというまたまたコメントエントリを書く羽目に・・(コメントなんでまた鰤さんと私の間柄の符合を言ったりするかもしれんがヨロ)

*)コメント問題は解決されたらしい。今は書き込めます。
また別の場所でけっこう鰤さんにはきついことかいたんでそれの責任も取っとこうと。(その場所についてはもうめんどくさいんで教えない)

そんで上記ぶりさんのエントリブクマで

id:kanimaster キリスト教 洗礼を受けていない者という立ち位置も、キリスト教を語ることを難しくしているような気がします。 2009/02/06
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090206/p1

というkanimasterさんのコメントがあり、まぁ「そんなことはないよ」と思いつつ、でも確かに難しいことではあるなと、色々考えたわけだ。

・・・というわけで表題テーマに戻る。

■洗礼を受けていなくてもキリスト教は語れるか

ここでは自分自身の宗教を語りうるか?ということについてですね。批判というのは誰でも出来ますが、宗教をコミットメント出来るか?否か?ってことっすかね。

・「然り」

まぁ単純に例えば「仏教には洗礼がないから皆さん自由にコミットメントする立場で語ってるでしょ?」ということに尽きる。

しかしなにやら仏教も色々な教派というか宗派があり、大乗とか小乗とか、わたくしのような耶蘇には区別がイマイチつかない。長い歴史があるだけに複雑でもありよく判らない。
表象的なことに関しては皆さん普通に語ってるし、他方、深い知識に掘り下げた話になると一応、立ち位置を明らかにして語っている。こちらの立場にコミットメントしているのだからあちらの立場に対しこういう批判を行うよみたいなことを明らかにしないとわからなくなるので、深いレベルの話をしている人はそういう前提を先ず書く。

そもそもわが国のように仏教が浸透している国でも、結局多様な宗派があるので、「家はどこぞのお寺さん」というのはわりと普通に対話にもなっていますね。

だから「我、仏教の徒であるか否か」などと意識せずにコミットメント出来るとはいえる。せいぜいが深い話になったときにその教派性の違いを意識する。

ところがキリスト教の場合、「洗礼」という秘蹟があり、更に加えて「堅信」という洗礼を更に意識的にするというか、所属する教会共同体が決めたマイルールに生きますよみたいな確認作業まであるんで、ハードルが高そうである。実際、先日のエントリにも・・・

id:azumy 宗教 本文もいいけどコメント欄が面白い/カトリックは自分にとっては一番すんなり精神に入ってくるけど、入信しようとは今のところ思わない。そこになにか日本人的な壁がある気がする 2009/02/03

というコメがあるように、「入信」ということが意識的にされる。
ここでは生まれながらに家の宗教が決まっちゃってる仏教的土壌に慣れきった日本人にとって、ハードル的なモノとなって「洗礼」が存在してしまうのである。
もっとも、キリスト教国でも洗礼は受けているが、あとは放置的な、慣習として俺ってクリスチャン?な人も多いんで。異文化のなかの少数文化に起きる現象でしょうな。

しかし、そのように概ねが生まれながらのなんらの教派のキリスト教徒であるような西欧と違い、日本のように他文化の土壌で意識的に洗礼を求めている、もしくはキリスト教の教えを生きる軸にしようと考えていたりしているという時点で既にその人はキリスト者でもあるので、日本的感覚で言うなれば「信者ではない」ということはない。ゆえに啓蒙者(洗礼志願者)は堂々とそこにコミットメント出来うる属性を持っているということになりましょう。

・「否」

さて、他方で「否」と考えてしまう心理がある。

これは他の宗教のことはわからないのでキリスト教ギョーカイ、それも洗礼という通過儀礼を持つ宗教に限った話しかできないので。ご了解いただければ。

鰤さんが己の立ち位置を曖昧にしてしまうことにわたくしは突っ込みいれたが、この心理実は判らなくもないのだ。

実際、洗礼受ける前ってのは、自分自身がどういう立場なのか曖昧でどうか語ってよいのやら。という心理になる。わたくし自身経験がある。鰤さんはかなり昔から知ってるんで、その立場長すぎだろ?とは思うが、こればっかりは他人が口を挟めぬ私的領域である。個と神の領域だな。ギョーカイ的感覚だと判らないかもしれないから俗な世界で言うなれば「夫婦喧嘩は犬も食わない」ようなもんだ。夫婦間は他人には分からない絆とか葛藤がありますからなぁ。

ここで「否」と考えてしまう心理は、例えば仏教でいえば意識的に特定の宗派浄土宗にコミットメントすると曹洞宗側から「そいつは浄土宗の固有の考えだろ」などと突込みが入ってしまうんで、それ相応の知識や覚悟がないとコミットできないみたいなあたりでございましょうか。しかも宗教というのはある種の「道」なり「修行」なり、論理化できない神秘の領域まで内包しているので、その道に入り込まねば真にそれは語りえないということがある。

知識としてそういうことを知って行けば行くほど語りえないことが出て来てしまうという感じ。

啓蒙者(洗礼志願者)が語りえないと感じてしまうのはその辺りの道の入り口にいてはコミットメントするようには語れないことを知っているという、「無知の知」的な態度にあるといっていいかもしれない。しかしこれは知らなくては到達できない意識である。だから道の入り口ではなく過程にあることには変りはない。
更に付け加えるなら、信者であろうがあれこれ知っていくと最終的に結局、神については完全に語りえないことに気がついてしまうのである。(仏教なんかも、探求してくと同じなのかな?)

*)追記
「神について語りえない」とは書いたが、語りうる領域がある。それが言語化された教義である。完全に語りえてはいないシロモノではあるのだが。キリスト教には様々な教派があり、それぞれがそれぞれの立場において聖書をテキストにして導き出した解釈から教義を作り、それをガイドラインとして神観や、森羅万象、また人間社会の様々な諸問題について言語化している。

そういうものをまとめたものを例えばわが教団、ローマ・カトリックでは「カテキズム(公教要理)」という。またこれらの教義を専門的に掘り下げ云々している学問があり、それを「神学」という。
言語化するというのは意識的に認識するということであり、またそれによって曖昧でもある神秘の領域が一定に固定化されてしまうため異論なども飛び出し、最終的には教派が分かれたり乱立してしまうという欠点を持つものであるが、人間が言語を通じて認識する生き物でもある為に不完全ではあるが、それをせざるを得ないということであるな。
そういうわけで、語りうる領域のみ語ろうよとオッカムが言い出したり、語りえぬことには沈黙するのだーというようなウィトゲンシュタインみたいな人がいたりするのである。
これら神学は時代の変化と共に変容する部分と、本質的原則の部分があって、これまた色々ややこしいのでここでは説明しかねる。

さて、なんらの教派にコミットするということはもう一つ、その教派を負うか否かが問われてくるんである。

洗礼を受けて信徒になると、例えばあなたはもうローマ・カトリック信徒であるから、ローマ・カトリックってクソだよねとか、馬鹿な司祭がニュースに登場したら「お前んとこはどーなってるんだよ?!」と非難されたり、「司教が左方向に向いてるからお前も左翼だろ」とか、「教皇がナチ司教と仲良くしてるからお前もナチか?」「十字軍」「異端審問」とかいらぬ罵倒を浴びる。プロテスタントの人から「マリア崇拝してるようですがそれって異端ではありませんか?」とか「聖伝」ってなんですか?というような教義的なことを聞かれたりする。少数派なのでカムアウトすると「あの人耶蘇だって」とか、ワシントン条約的希少動物ヤシガニ並みの奇異な目で見られることもある。徳川に時代なら拷問されて処刑である。

そういう突っ込みどころ満載のローマ・カトリック教会をあなたは背負う覚悟がありますか?とまぁそういうことであるな。漢なら背負おうぜ。とかいいたいところではあるが。そういう問題でもないしな。

とはいえ、教会共同体に属するということはそうした過去全ての隣人を背負うことにもなる。また教会の教義についてコミットしなくてはならない責任を持つことになる。

教会の偉い人が言ったことに反対な意見を持っているとしよう。
「ゲイの結婚を認めるか?否か?」
友人にゲイというか既に性転換までしちゃった人がいるので、私は個人的に認めたい。しかし教会は「それはダメポ」という。こういう時、どう考えなくてはならないかという普通なら「え〜?なんてどけちだ。無視しようぜ」で済むようなことを真面目に考えなくてはならなくなる。場合によっては真剣に教会に反抗しなくてはならない。しんどいのである。洗礼なんて受けなきゃ良かったとか思うこともある。

しかし、自分自身が神の存在が自明であるとかカトリック文化の中で育ってきたとか、カトリック教会が揺籃してきた教えになんだかんだ助けられているのを知っているんで、やはりカムアウトすべきことであったなと思うので、まぁ結局後悔はしていない。どんな人でもなんらかのかたちで共同体に属するし、中には有無を言わさない形で共同体に属している。(家族とか国とかはその例だな)その共同体に対し責を負わざるを得ないのと同じである。(東アジアの国々に日本人が罵倒されたらムカつくのとかさ。)

そういう覚悟が問われている場に於いて、洗礼前というのはやはり躊躇がある。当然だろう。

意識的に先例ということを考えれば考えるほど、教義等を含めた全てに対し「然り」といえないということは既に駄目なんじゃないか?とか悩ましい時期がこのときでもある。コミットメントを完全に出来ないのはまだどこかに引っかかりを感じているからという、すこぶる真面目な動機から来る。真面目な人ほどおそらく躊躇するだろう。
(・・・といっても、実はナニも考えないでいるほうが良かったりするんだけどね。秘蹟とは頭で考えることではないから。)

まぁ、日本人にとって洗礼ってマジ、ハードルだよな。

わほっ、ゴス世界が沢山〜〜〜萌え〜〜〜っという意識で洗礼受けても別に構わんのだが。なんで萌えるのか結局勉強はさせられるけどね。。。。

つまりなんで萌えるのか単純に語ってもほんとはいいんですが、ゴスを伝統的文脈に基づいた物としてきちんと語るには、カトにおける萌え心理が神秘的にもシュミレートされないと語れないかもしれないという点で否ともなるということですな。但し、直感知というか、ビギナーズラックの部類に入るのか、ナニも知らぬ素人さんが中の人よりずっと鋭い感性で以て語り本質を見抜く場合があるので、宗教的神秘世界は侮れない。