子供向けロボットアニメ

最近アニメを見る本数がぐっと減ってしまって更新が滞っていたのだが、twitterでリクエストをいただいてやはりそういうのはありがたいので何か書こうと思う。たしかtwitterでは、最近の作品で何か記事を書いてくれないか、とのことだったが正直あまり見てないんですよね…。

僕にとってアニメはロボットアニメ中心に回っているのだが、今更だけどロボットアニメってやっぱり尻すぼみになってきているのかな。ロボットがでてくる作品でもロボットを中心に語る気が起こらないというか、そういう感じがする。たとえば『忘念のザムド』とかもたしかロボットがでてきたけど、べつにロボットがどうこうじゃないよな、という感じか。あと『コードギアス』もいろいろブログとかを見る限りロボットアニメの文脈で語っているのを見たことがないがどうなんだろう。

まあそんなわけでちょっと前のロボットアニメとかを見た。『ゾイド』と『メダロット』。ちょっと前どころじゃないかな。まあとにかく、両者には共通点がある。ふたつとも玩具の販促的な側面が強いということだ。いずれもWikiの情報だが『メダロット』の場合はゲームと漫画連載がまず始めにあってアニメ放送はそのあとらしい。『ゾイド』はゲームではなくて1/72のスケールの組み立てキットがはじめで歴史はかなり古い。今回見たアニメの約20年前にすでにアメリカで発売されていて、なんかいろいろ複雑な経緯をへてアニメが放送されることになるのだが、どうやら評判が良かったらしくてその後も続編がつくられた。見るまでは『ゾイド』についてはロボットがでてくるということしか知らなかったが、『メダロット』は岡村天斎が監督をしたということは知っていて、神山健治がやたら評価してたという記憶はあって気にはなっていた(どうやら『メダロット』制作にかかわっていたから下駄を履かせてた部分があるのかもしれないが)。

こういった漠然とした前情報から何となく子供向けアニメなんだろうなあと思っていた。たぶんロボットアニメといえば子供向けという時期はあっただろうし、勇者シリーズなど(それが子供向けだとして)ロボットアニメを語るのに重要な作品群もあるだろうが、はやりリアルロボット好きの僕にとっては子供向けはなあ、という偏見があるので正直気が重かった。ところが『ゾイド』はストーリー的にはあんまり子供向けという感じではなかったな。『メダロット』は本格的に子供向けという感じだったが。

しかしここで問題にしたいのはストーリーとかではなくて、一点だけ。というかその点しかおぼえていない。一言でいうとロボットに対するフェティシズムだ。ここのブログの文脈ではロボットをモノとして扱うのがリアルロボット系で、その逆、というか、ロボットをコミュニケーション可能な存在として(つまり人として)扱うものを非リアルロボット系と扱ってきたが、フェティシズムとはこの図式の中で理解できる。端的にいうと、どちらの作品もゾイドやらメダロットやらとコミュニケーションを図ろうとする者=分かっている者、それらをモノとして扱っている者=分かってない者、という図式がある。特に『メダロット』では終盤まさにこのことがテーマとなる。そしてこのことは、当該のロボットに関する心理ということではなくて、ロボットに対峙する登場人物達の倫理の問題であるということが重要だ。

ここで対比すべきは、『機動警察パトレイバー』TV版だ。すでにこのブログで述べたが(こちら)、TV版、とりわけ終盤は泉野明のアルフォンスからの自立の物語として描かれている。そこでは野明のアルフォンスに対する偏愛は原体験における喪の感情の埋め合わせに過ぎなかった。つまり過去の喪失を真に乗り越えることを怠った結果であると言える。

まあ一言でいえば、『パトレイバー』においてはロボットは他者ではあり得ないが、『メダロット』や『ゾイド』においてはロボットは他者たりうる、ということになる。イッキのいうように、メタビーはモノではなくて友達である。もし「子供向けロボットアニメ」とそれ以外を区別するようなジャンル分けが可能であるなら、それはロボットをコミュニケーション可能なものととらえるか、そうでないか、ということによってできるのではないだろうか。何となくおもちゃの売り上げとかを考えると、こういう考えは妥当な気がするが、細かいことは勇者シリーズとかを見ないとちょっとまずいかなとは思う。あまり見る気が起こらないのだが。

今回はメモ程度に。