サテライト『マクロスFRONTIER』

見た。正直あまり書くことがないかなあとか思ったが、ネットで特に最終回についての反応をちょっと見たのでそれに関連して書こうかなと思う。映画化が決定したようだが、それは総集編なのだろうか、あるいは続編に当たるのだろうか。後者なら今何かを書くのはどうなのかとは思うが、映画化の詳細についてはよくわかっていないので、まあ今何か書いてもいいかなと。

で、見たのがこちらのブログ:

「マクロスF」の最終回って結構ひどくないか? 特に三角関係に関して〜河森正治監督と吉野弘幸さん一体どうなのよ〜 - 海ノ藻屑

ブックマークがたくさんついているので、かなり反響があったエントリーなのかもしれない。

まあ僕にはシナリオの良し悪しについて語る権利はないので、選択をさせなかったシナリオがどうかというよりも、むしろこれまでの河森作品群のなかでどう位置づけられるかについて考えた。実はこの点についてあまり書くことがないのかなと当初思ったのだが。
どういうことかというと、このブログで散々かいてきたように、河森的な問いはいかに戦いをしないか、ということだが、その点について新たな回答が(完全なかたちでは)この作品ではあまり出ていなかったのかなあと思ったからだ。これも繰り返しだが、この問いはいかに戦いのない世界を実現するか、という問いとは異なる。この問いはそれを実現するための戦いは否定されないからだ。そうではなくて河森的な問いはどんな戦いであれそれを否定する、というものだ。それは一方に味方がいて他方に敵がいるという位置づけを認めない。端的にいえば本質的には敵は存在しない、という考え方だ。『超時空要塞マクロス』(以下ファースト)では外交交渉によって結果的には敵ではなくなるし(関連エントリー)、『天空のエスカフローネ』では「想いが伝わる」ことによって戦いは終息する(関連エントリー)。また『創聖のアクエリオン』では意味不明だが敵と味方が合一する(関連エントリー)。いずれにしてもそこに共通しているのは当初敵だとされていた者たちが決して駆逐されることがないということだ。そしておそらくこの思想が最も明確に、ある意味で純粋なかたちで示されたのが『地球少女アルジュナ』だ(関連エントリー)。「純粋な」といったのはそれが必然的に含む矛盾やアポリアを含めて示されていたからだ。端的にいうとこういうことだ。戦いはそれ自体が誤りだ。戦いをしようとする者はその対象を誤って敵と認識しているから戦いをするのであって、「敵という認識」そのものが誤りだ。なぜなら本来自然とは調和に満ちているものであり、自然のなかには本質的に争いは存在しない。それを争いと見るのは人間の誤った理性によるものであり、その誤った理性によって発せられる言葉によって人々は誤解しあい、争う。河森にとって自然とは本来すべての生きるものが分有しているものであり、そこから言葉、理性、個人の感情などは排除される。そしてこの考え方は『マクロスF』にも反映されていて、最後に艦長が言うようにバジュラは敵ではない。よって歌は兵器ではない。そうでなければわざわざ『マクロスII』を正史から外す必要もない。

当然こういった考えはいくつかの点で問題を喚起する。そして最も大きな問題のひとつについては作品内で直接的に語られている。それは妊娠中絶の問題だ。河森的な観点からすれば中絶は端的に誤りだ。つまり生む母親の感情などは誤りに過ぎないのだから、この点を除けば中絶は殺人と変わりない。

さすがにそれはないだろう…、とか思ったが、上記のような自然、あるいは生といってもいいのかもしれない、を原初的なものとして考えるとそうなるのかもしれない。

そうやって考えると、マクロスシリーズにおける三つの要素、「歌」「可変戦闘機」「三角関係」のうち、最後の三角関係はこのような河森的な思想と非常に相性が悪い(それに対して歌は非常に相性が良い)。河森的思想を元も子もないかたちで翻訳すると「自然に帰ればみな幸せ」ってことだと思うが、三角関係でそれは難しい。『ファースト』においては戦争と平和の問題と三角関係がまったく別の次元で進んだので一条がどういう選択をしてもあまり大局に影響しなかった(と思う)。『マクロス7』では主人公、つまりバサラの観点からしたら選ぶ方というよりも選ばれる方(だったと思う)なのであまりそういうことも気にならなかったのかと思う。しかし少なくとも『アルジュナ』以降、もしかしたら『エスカフローネ』以降かもしれないが、個人の「想い」と世界の情勢がある種相似形になっているという感じがあるので、一方で修羅場、他方で平和への努力、といった感じは表現しづらくなっているのかもしれない。

つまり『マクロスF』において主人公が決断できないのはこれまで示された河森的思想に鑑みるとある種必然かなと思って見ていた。しかしこの作品においておそらくこれまでになかった新たな側面があらわれているような気がした。それはコミュニケーションへの希求だ。たとえば『アルジュナ』においては言語なるものは単に自然を間違ったかたちで表現したものに過ぎなく、それゆえ排除されるわけだが、それに基づくコミュニケーションなるものもまったく重視されない。『エスカフローネ』における「想いは伝わる」ということもなんかよくわからないが言語的な媒介をへずになされる。その最たるものが『マクロス7』で、歌しか歌わないでバサラは「なんで判りやがらねえんだ」みたいなことをのたまう。そりゃ判らんだろ、とか思うが、ここでの理解は歌という言語を越えた何ものかによって伝わるものであり、しばしばマクロスシリーズにおいて歌とは非言語的なものとして考えられてきている。それゆえに歌は河森的な思想と非常に相性が良い。

しかし今回の作品では、『アルジュナ』での思想の乗り越えの試みが見られると思う。一言で言えばコミュニケーションの問題に取り組みだしたということか。むしろ原初的な統一への回帰を夢想したのはラスボスのグレイスであって、主人公達はそれを明確に否定する。そして最後の最後に示されるのは歌というのも言語を越えた何ものかではなくて、求愛の手段であるということであり、ここで恋愛と歌が結びつく。これはたぶん河森的思想という観点からすれば、ある種の発展であって、そしてそれは完結していない。だから劇場版かなんかでそれを引き継いでほしいとは思う。まあ別の作品でもいいのだが。いずれにしてもなんというか過渡期なのかなとは思う。