「大陸」と「島」の間の空白をほじくって、ケルト幻想の終わりを体験する

<<前段>>

「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
https://55096962.seesaa.net/article/201705article_21.html

------------------

画像
*死屍累々となってしまった修正の必要な本たち*


というわけで、近年積み上げられつつある証拠と新たな見解により、島のケルトと大陸のケルトを繋ぐ線はかつてより細く、さらにおぼろげになりつつある。しかし、もしまだ否定されていない証拠があるのなら、それを見つけてみたいと思った。

そこで、「そもそも島のケルトって何で大陸のケルトと繋がってることになったんだっけ?」「根拠は何だっけ」というのを今更のように調べなおしてみた。

そしてとんでもないことに気づいてしまった…。

 元々、ほとんど証拠がなかった。

えっちょおま、むしろ何で今までずーっと繋がってると思われてたの?!
私のリサーチが足りないのか。それとも今まで疑問の声が届いていなかっただけなのか。おかしいのはこの世界か俺か。(哲学) そもそも根拠ないのに何でずっと…繋がってると思われてたのか逆にちょっとよく…わかん…な…。

というわけで、「大陸のケルト」と「島のケルト」の間に横たわる不可解な空白についてまとめてみたい。

************************

<<前提>>

■大陸のケルト/古代ケルト/歴史ケルト【本来のケルト】

紀元前5世紀~紀元後1世紀
遅くても紀元後5世紀頃には大陸側のケルト文化は消失

■島のケルト/中世ケルト/復興ケルト【自称ケルト】


16世紀~(大規模に"ケルト復興"されはじめるのは18世紀)
従来説では5世紀くらいに大陸から島へケルト人が渡ったことになっているが、現在その説は考古学・遺伝学・言語学からともに否定されている



■大陸のケルトの証拠

本来の"ケルト"だった大陸ケルト(ケルトイ/ガリア)についてローマ人が記した文字資料は以下のとおり。200年くらいの差はあれど、だいたい紀元前1世紀~後1世紀の間に収まっている。ローマ人が最もケルト人に興味を持っていた時期の記録でもある。これらはリアルタイムにケルト人の動向を記録したものなので、異文化に対する多少のカン違いはあれど、基本的に信用できると思われる。

「ガリア戦記」 ユリウス・カエサル

「地域誌」 ポンポニウス・メラ

「地理誌」 ストラボン

叙事詩「内乱記」(ファルサリア) ルカヌス

「博物誌」大プリニウス

「歴史叢書」ディオドロス

「ローマ史」リウィウス

また、同時代の品として発掘されているエポナ女神の像・碑文や「ゴネストロップの大釜」などの考古学遺物も、今までどおりケルト人のものと見なしてよいと思う。
「大陸のケルト」については文献、考古学資料が揃っているので存在を疑う必要はない。
問題は、彼らがローマに征服された「後」である。


■謎の空白部分

ここから「大陸」と「島」の間に不可解な歴史の空白が発生する。

 ・大陸ケルト消滅後、島への移住地はどこと想定されていたのか(距離的空白)
 ・島に移住後、次に「ケルト」の神話伝承が形として現われるまでの間はどうなっているのか(時間的空白)
 ・島に伝わったはずのケルト文化は移住後から継続されているのか(文化的空白)

いずれにも明確な回答がないまま、ケルトの歴史本は「大陸」と「島」を強引につなげてしまう。証拠が乏しいにも関わらず、だ。具体的に言うと「大陸のケルト」の章と「島のケルト」の章があって、間に千年近くの時間が挟まってるのが無視されている。


■島のケルトに証拠はあるのか


・大陸から島へ渡った証拠はない

改めて調べなおしてみたら、そもそも「ケルト人が大陸から島へ渡った」と考えた証拠が無い。というか、根本的な部分で、島にケルト人が住んでいると判断した明確な理由が見当たらなかった。調べながら自分も「???」ってなっていた。移住説ってどっから出てきた。

もし、ローマがブリタニアへ渡ったときに制服したのがケルト人だったのなら、ケルト人はその前からブリテン島に住んでいなければならない。だがローマ到来以前のブリテン島は「ケルト語圏」ではあったもののケルト文化圏ではなかった。後から渡ってきたとすると、既にローマに征服されているのでローマ化していることになる。なんだかよくわからない。


・ケルト文化の存続が見えない

もしケルト文化が島に伝わっていたとして、大陸の本体が消滅したあと何百年も経ったものをケルト文化の末裔だと主張するのはムリじゃないかと思う。その間にゲルマン人の文化なども混合されているわけだし。

タラ・ブローチなどケルト文化のものだと華々しく喧伝されるものもあるが、ぶっちゃけそれは8世紀のものである。移住したのが紀元前だったとしたら、たとえ元がケルト文化だったとしても既に別ものに変化している。(ていうか移住の明確な証拠がないので、別モノと考えたほうがいいのでは… なぜケルト文化のものだとしたのかが分からない…)


・神話伝承の繋がりが見えない

「ケルト神話」とされているものが文字として記録されたのは最古で12世紀となっている。もちろん口伝ではそれ以前から伝わっていたはずだが、最大限遡っても7世紀くらいまでとのことなので「大陸」でケルト文化が消滅する時期から何百年も離れている。文字と違って、口伝は、最後の語り手が永遠に口をつぐんだ瞬間から再生不能となる。すなわち、誰も知らないまま数百年の時を越えることは出来ない。

大陸のケルトとして記録された神格と同じものが島のケルトの神話の中にあればまだ繋がりが見えたのだが、似たような役目を持つ神はいてもそのままのものが出てこない。こんにち「ケルト神話」と言われているアイルランドの神話は、ギリシャ神話+キリスト教+汎用的な自然崇拝、といった構成になっていて、ローマ化した後に作られた神話伝承と言っても説明はつく。逆に、ローマ化する以前のケルトの伝統を受けついでいるという明確な証拠が見えない。

…いやむしろ、何で今までこれケルト神話だったんだろう。


・ケルト語は最初から島に存在していた

ブリテン島のケルト語(Pケルト)とアイルランドのケルト語(Qケルト)は、同一起源だが若干異なる。という話はよく知られているのだが、その「若干」部分は実は若干などではなかった。言語に差異が生まれるには一定期間の断絶が必要なのだが、PケルトとQケルトの分離には2000年かかるという。ってことはそもそもケルト人の流入とか全然関係なかった。アイルランドもブリテン島もずっと昔からケルト語圏で、それぞれ独自に言語を変化させていたのだ。

ケルト語はインド・ヨーロッパ語族の一端だから、言語の流入は、氷河期の終わりに最初に人が移住した時期からそう遠くないか、ほぼ同時かもしれない。島のケルト語がスペイン・ケルト語と親戚関係にあるのも当たり前だ。遺伝子調査から、島の住人は氷河期の終わりにイベリア半島から移住した人々の子孫だと判明している。ローマ人の言う「ガリア人」がケルト語を話していたかどうかはもはやどうでもよくなり、「ケルト」というアイデンティティと「ケルト語」が結びつく必要もなくなってしまう。


・ということは、今までの「島のケルト」とは?

「ケルト人が大陸から島に渡ったものが島のケルトだ」という前提のもとに、都合のいい証拠や物語を集めて作り上げた壮大な虚偽の歴史だった可能性が出てきた。まあストーリーありきで当てはめていけば、なんとなく絵は描ける。その絵が誰かにとつて心地よく都合の良いものであれば、勝手に強化され喧伝されて既成事実になっていく、ということなのだろうか。





少なくとも私には、「島のケルト」がケルトではない、という反証以上に強力な「証拠」が見つけられなかった…。
むしろ今までよくこれ信じられてきてたもんだなっていうか、いや薄っすらなんとなく巧く繋がらないなぁと思ってたけど、そっかーやっぱり別モノなんだな、と納得できた…。
なんだろう当たり前のことを疑うのって、やっぱり難しいもんなんだろうか。

この記事へのトラックバック