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頼朝と常陸国国府

 石岡に暮らしていると、平国香や平家、平氏、大掾氏などの話はよく聞くが、源頼朝の話を聞くことは殆んどない。
しかし、12月8日に行われた歴史塾の講演会時に土浦市博物館の館長の糸賀先生とお話しする機会があり、先生が前からおっしゃっていた「頼朝が石岡にきたんですよ。これをもっと石岡の人はいうべきだとおもう」とおっしゃっておられた。
前から何回かはこの話を聞いていたので、それ程の驚きはなかったが、歴史学者からすればこの話題は大きな歴史的ターニングポイントであったように思う。

頼朝の行程

この上の図は源頼朝が、富士川の合戦で、勝利を収めた後、京都の平家を攻める前に、常陸国の佐竹氏を攻めた時の日程が記されている。

・治承4年(1180年)8月:伊豆で三浦氏や北条氏の協力を得て挙兵したのが源頼朝ですが、石橋山で平氏の大庭氏に敗れ安房へ逃走。
・治承4年(1180年)10月6日:安房国、上総国、下総国など東国武士(上総介広常 、 千葉常胤 、 畠山重忠 等)が頼朝に加勢して大群となり鎌倉に入る。
・治承4年(1180年)10月16日:平維盛率いる頼朝追討軍を迎え撃つために、鎌倉を出発
・治承4年(1180年)10月20日:甲斐国で挙兵した武田信義らと駿府で合流し、富士川の戦いに勝利。
・この戦は士気の上がっていない平家軍が夜に水鳥の飛び立つ音に驚き、一目散に退散して、殆ど戦らしい戦いも無く頼朝軍が勝利したとつたえられる。
・10月27日:頼朝軍はそのまま京都に攻め入ることはせず、広常が「関東での覇権を先に握るべきだ」との話に従い東国北部の憂いを除くために常陸国へ向かいます。
・11月4日:常陸国国府(現石岡)に到着
・佐竹氏は太田(現常陸太田市)を本拠に奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していた。佐竹11月5日:秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城(現金砂郷村)にたてこもった。秀義の兄義政は縁筋にあたる上総介広常の勧めで帰順し、頼朝との会見のため国府(現石岡)に向かったが、園部川にかかる大矢橋で上総広常により謀殺された。大矢橋の西に義政の首塚、行里川に胴塚と伝えられるものが残っている。(石岡・小美玉スマートインター付近)
・11月5日:佐竹氏の立て籠もった金砂城を攻撃するも攻略ならず
・11月6日:頼朝は秀義の叔父の佐竹義季を味方につけ、この義季に金砂城を攻撃させた。この城のつくりに詳しい義季によりついに城は陥落し、佐竹秀義はさらに北部の花園城へと逃亡した。
・11月8日:頼朝は常陸国府を離れ、小栗重成の小栗御厨の八田館に入る。
・11月12日:頼朝軍、武蔵国に到着
・11月17日:鎌倉に到着。

さて、南関東の武士団を味方につけた頼朝は北関東で勢力を誇っていた佐竹氏をおそれたようだ。佐竹氏も甲斐武田氏と同族の源氏であったが、関東での武士団は源氏も平氏も入り混じっていて、平清盛たちの、都で思いのままに驕る平家を快く思っていなかった関東武士団は源氏も平氏も天皇から分かれた同じ一族と言う共通点でまとまっていたのだろう。
頼朝が小栗御厨に立ち寄ってから鎌倉に戻ったのも、いろいろの解釈がされているようだが興味深い。


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石岡の歴史を訪ねて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/12/29 00:04

奈良時代の国府景観

 石岡の歴史を訪ねてシリーズ復活。
最近「茨城の歴史をさぐる」という冊子を手に入れた。
これは茨城県立歴史館の常設展示解説のための冊子で、平成4年(1992)であるので、今から30年以上前に造られた冊子である。

国府景観

こんなものを眺めながら1300年ほど前の石岡の街を想像してみる。
他の都市にはない景観である。
手前の寺院は茨城廃寺(法隆寺式は位置)、その上が「茨城郡衙」、中央が「常陸国衙」、右手にしたから「国分僧寺」「国分尼寺」「鹿の子遺跡」です。
現在の石岡小学校の敷地一帯が「常陸国府跡」として国の史跡と認定されたのは平成22年(2010)である。
そのため、国府(国衙)は想像して書かれていて、手前の茨城廃寺、茨城郡衙に比べると迫力がない。

でも悠久の時を想像するには良い景観図である。

左側を流れているのは恋瀬川(志筑川)、右手は山王川であろう。
山王川は現在、石岡駅近くで地下に潜って、又その先で川となって高浜の先て霞ケ浦に注いでいます。

茨城郡衙跡の裏側には穀物を蓄えておく正倉があったと推察されて描かれていますが、発掘はまだの様です。
また国衙跡の裏手にも倉庫群が有ったように描かれていますが、これも推察です。
恐らく郡衙は米などの租税倉があったと思われますが、国府側には絹などの保管は国府の正殿などにあり、租税米などの管理は郡役所の管理であったと思われます。




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石岡の歴史を訪ねて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/12/27 11:38

狢内長楽寺

 狢内の真言宗長楽寺。
ここが寺巡りを始めた原点かもしれない。

狢内集落の一角に隠れるように存在する「岩間山の十三番目の天狗」となったと言い伝えられる長楽寺。
廻りを木々に覆われていても、上空にぽっかりと青空が見え、光が全体に降り注ぐ。
不思議な感覚になる寺である。
私のブログのイメージ写真に2010年の開設当時から使い続けている。
12月中旬に挨拶が寺でかけてきた。

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八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/12/26 10:44

太田善光寺本堂取り壊し

 石岡市八郷の太田地区にある「善光寺楼門」は国の重要文化財であり、行方市の西蓮寺の楼門と構造も建設時期も似通っていると云われます。
共に楼門(2階建て)仁王門様式の門ですが、二階部分が何らかの理由で建設されなかったか、または移築時に変更されたために現在1階様式の仁王門となっているものです。
この太田の善光寺仁王門は室町時代の1501年に新治郡井白郷舘荘に建立されたという。
この場所はよくわからないがこの八郷地区の太田もそこに含まれているようなので、現在の手rの場所の裏山あたりなのかもしれない。
現在地には江戸時代の1701年に移されたらしい。

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さて、訪れた方はこの紋を入って先の階段を昇ったさきにある寺の本堂を見て嘆かれる方が多くおり、大きな寺本堂の屋根が壊れて崩れかけになり、私の知る限りでも10数年前は東側の一部であったが、数年前は西側も崩れ何時倒壊してもおかしくない状況であった。
藁葺屋根を瓦式屋根に変えて重量計算でも間違えたとしか思えず、鉄板葺きにでもして再建を願っていたが、今回訪れて見ると建物は跡形もなく取り除かれていた。
左手奥の神社はそのまま残されていました。

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テレビの忍者戦隊などの撮影に時々利用されて利したようだが、最近は危険での立ち入りも制限されていた様だ。

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建物が取り壊されて、正面奥の小田氏の五輪塔がよくみえるようになった。

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唱和の後半頃まではお盆の日にこの寺の本堂を歌を歌いながらやぐらを組んで一晩中回る「万灯祭」が行われていたというが、現在は下の境内横の公民館内部に写真などが残されているだけで地元の人以外はなかなか目に入らない。
善光寺仏も7月に供養で一度だけ蔵から出してこの公民館で供養祭が行われるという。
「お池の松は姫の松」などと盆歌を歌ったと、「旧八郷町史」に書かれていたのを思い出していた。

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八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/12/25 10:31

冬桜

 先週末に訪れた八郷太田地区の善光寺楼門。
その門の隣りに咲く可憐な花・・・・・
桜?
どうやら冬桜の一種でしょうか?

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陽当たりは良いので山桜が咲いたのでしょうか?

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筑波山から加波山の山並みが良く見えます。


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八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/12/24 06:09
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