伊江村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/27 14:19 UTC 版)
地理
島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い。
川平、東江前、東江上、西江前、西江上、阿良(あら)、真謝(まじゃ)、西崎の8つの集落からなる。定期便のフェリーが発着する港がある川平周辺が、島の中心部になっている。島の北西部には在日米軍の伊江島補助飛行場があるなど基地の島でもある。一時は島の面積の約半分が米軍基地であったが、島民による基地返還闘争が継続的に行われ、5度にわたり部分的な返還がなされた。この結果、基地の面積は島全体の35%となっている。米軍基地の概要と返還闘争の経緯は伊江島補助飛行場を参照。
字
5字からなり、行政区は8つに分かれる。
- 川平(かわひら)
- 西江上(にしえうえ)
- 真謝
- 西江前(にしえまえ)
- 西崎
- 東江上(ひがしえうえ)
- 東江前(ひがしえまえ)
- 阿良
歴史
旧石器時代 - 貝塚時代
旧石器時代から古代(沖縄貝塚時代)にかけての遺跡が数多くあり、特に島の南海岸の砂丘には多くの遺跡が連なる。伊江島空港の西すぐにあるゴヘズ洞穴では更新世の鹿の骨、2万年前の旧石器時代の人骨、貝塚時代前期の土器などが発見されている[1]。
- 旧石器時代 : 化石人骨(ゴヘズ洞穴など)
- 貝塚時代前期(縄文時代) : 貝塚時代早期の土器が出土し、以後、南海岸の砂丘や台地上に遺跡がある。
- 貝塚時代後期(弥生時代 - 平安時代) : 前半同様、多くの遺跡があり、九州との交易が考えられている。
- 貝塚時代晩期・グスク時代初期(平安 - 鎌倉時代):後期、大和の奈良時代頃からヤコウガイの交易が盛んになっており、伊江島にも琉球弧最大級の貝殻遺跡がある。
中近世
伝承であり時代不明だが、力タンナーパ(力玉那覇)の伝説が城山にある。
琉球にて特徴的な、グスク時代最盛期の土盛りや石造りのグスクの遺跡は少ないが、中世琉球弧共通のグスク時代の遺物(中国などの陶磁器、滑石製石鍋、カムィ焼)が出土している。
北山世主今帰仁城は海を隔てて近いが、後北山北山王国怕尼芝が勃興するまでは、特に近隣按司との主従関係はもたず、徳之島、沖永良部島、与論島そして伊平屋島など周辺諸島との交流、ないし按司同士の小競り合いがあったと考えられている。ここまでは人口も精々数百人ほどの孤立島であった。
14世紀、怕尼芝が同族の丘春らを討ち後北山を開くと、伊平屋島とともに北山王に入貢し、その支配下に入ったと考えられている。後北山の頃から中国との交易品として伊江馬が珍重され、飼育場があったと伝わる。ノロ職も置かれたと言う。尚巴志の琉球統一により王国(北山監守)配下となるが、島の貢租は王府に直接納めていた。
なお、歴史学的に判明している最初の島司(按司)は、1559年(嘉靖38年)に任ぜられた尚清王の王子・伊江朝義である。以降琉球処分まで、琉球屈指の名家伊江御殿の差配となる。それ以前の島之主は記録には無いが、有力な根人(ネッチュ)には佐辺家があったと言う。
島司は現地には赴任しないが、他の島間切と異なり、当初按司掟(現地役人)は置かれず、ノロ(君ノロ、五ノロ)が指導していたと見られる。その後、在番が置かれた。伊江御殿が代を重ねるごとに按司家や親方が増えて支配が重層化し、琉球王府の下で年貢は重く、表向きは四公六民ながら、実態は、さまざまな別の貢租が課せられ実態は六公四民であり民は苦しんだ。羽地朝秀の改革により開墾が奨励され折目行事などの祭も許され、暮らし向きは幾分楽になったと云う。
代々伊江御殿配下は、琉球から薩摩や江戸へと公務や使節その他で航海に任ぜられた。首里在住の総地頭ら(按司)の航海に島の若衆らも随行し、一種の留学生的役割を齎した。御殿と島衆らの費用面や人的貢献も多大ながら、それは首里経由ではない島独自の大和からの文化的影響を多く齎すこととなった。
近現代
帝国陸軍伊江島飛行場
- 1943年(昭和18年)伊江島の土地を飛行場建設用地として強制接収、春から陸軍航空本部による「東洋一」とよばれる飛行場の建設に着工。東飛行場に3本、中飛行場に2本、西飛行場に1本、計6本の滑走路建設が計画された。
- 1945年(昭和20年)3月10日:第32軍 (沖縄守備軍) の要請に応じ、大本営が伊江島飛行場の破壊命令を通知。13日から自壊開始。
伊江島の戦い
- 伊江島は東洋一と言われた飛行場が建設され、守備隊が配備されていたため、米軍の主要な攻撃目標とされた。4月16~21日にわたる伊江島の戦いで、一般住民約1,500人を含む4,700人余が犠牲となった[2]。住民は沖縄戦における集団自決に追い込まれた。生き残った島民は米軍に収容され、北部の収容所や阿嘉島に移送された。
米軍伊江島補助飛行場
伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故
1948年8月6日午後5時過ぎ伊江島の波止場で、接岸していた米軍の弾薬輸送船 (LCT1141) が、積込中であった先の沖縄戦時の未使用弾および不発弾などの荷崩れを原因とする大爆発事故を起こした。沖縄はアメリカの軍政府統治下に置かれ、伊江島では不発弾処理が行われていた。弾薬輸送船には、5インチロケット砲弾約5,000発(125トン)が積載されており、多数の死傷者を出した。その日は夏休み中だったこと、たまたま地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたことなどで、米軍事故調査委員会報告書によると死者107人、負傷者70人を出し、米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となった[3]。
年表
- 1701年(康熙40年) - 東江村・西江村・川平村がおかれる。
- 1875年(明治8年) - 東江村が東江上村と東江前村に、西江村が西江上村と西江前村にそれぞれ分かれる。
- 1908年(明治41年)4月1日 - 島嶼町村制施行により、東江上村・東江前村・西江上村・西江前村・川平村が合併し国頭郡伊江村が発足。従来の村は字となる。[4][5]
- 1944年(昭和19年) - 九州への疎開が始まる。東江前から阿良、西江上から真謝が独立して行政区となる。
- 1948年(昭和23年) - 波止場で米軍弾薬輸送船爆発事故が発生する(死者107人、負傷者70人)。
- 1975年(昭和50年) - 伊江島空港が民間共用化される。
変遷表
伊江村村域の変遷表 | ||||||
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1868年 以前 |
1868年(同治7年) - 1908年(明治41年) | 1908年(明治41年) 4月1日 |
1908年(明治41年) - 1987年(昭和64年) | 1987年(平成元年) - 現在 | 現在 | |
西江村 | 1875年(明治8年) 西江上村 |
伊江村 | 伊江村 | 伊江村 | 伊江村 | |
1875年(明治8年) 西江前村 | ||||||
東江村 | 1875年(明治8年) 東江上村 | |||||
1875年(明治8年) 東江前村 | ||||||
川平村 |
- ^ “ゴヘズ洞穴 | 伊江村公式ホームページ”. www.iejima.org. 2020年10月28日閲覧。
- ^ “総務省|一般戦災死没者の追悼|沖縄県における戦災の状況(沖縄県)”. 総務省. 2020年3月22日閲覧。
- ^ “1948年8月6日 伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故 – 沖縄県公文書館”. 2020年1月26日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 47 沖縄県』、角川書店、1986年 ISBN 4040014707
- ^ 日本加除出版編集部『全国市町村名変遷総覧』、日本加除出版、2006年、ISBN 4817813180
- ^ a b 沖縄市教育委員会『チャンプルー44号』
- ^ 島袋伊江村長が死去 69歳 自宅で倒れる - 琉球新報デジタル 2022年5月22日
- ^ 離島MESHランデブーポイント - NPO法人 MESHサポート(2011年9月27日現在)
- ^ 「子どもたちの財産に」ブックリボンプロジェクト 伊江村へ本1万冊贈る - 琉球新報(2011年3月6日付、2012年5月12日閲覧)
- ^ 各施設へ本の寄贈が終了しました。(ブックリボンニュース) - 出版文化産業振興財団(2011年5月11日付、2012年5月12日閲覧)
- ^ 船舶時刻・運賃表 - 伊江村
- ^ a b 交通アクセス - 伊江村
- ^ “第一マリンサービス | 沖縄 那覇ー本部 高速船”. daiichi-marine.com. 2020年10月28日閲覧。
- ^ 「伊江島の村踊」について伊江村教育委員会、2015年02月14日
- ^ イエ島特設サイト 2020年7月31日閲覧。
- ^ イエ島リリーフィールド特設サイト 2020年7月31日閲覧。
- ^ 2019・夏特設サイト 2020年7月31日閲覧。
- ^ 期間限定イベント「イエ島ゆり祭り~マカトゥの秘密~」開催! 2020年8月23日閲覧。
固有名詞の分類
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