ひごう‐の‐さいご〔ヒゴフ‐〕【非業の最期】
非業の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 21:36 UTC 版)
黒船来航により尊王論が巻き起こると、為恭も巻き込まれることになる。為恭は尊王攘夷派から王朝擁護と見られていたものの、佐幕派の要人宅に出入りするなどの行動が「尊王攘夷派の情報を漏らしているのではないか」との疑心を抱かせ、命を狙われることになる。 為恭は、『伴大納言絵詞』を所有していた小浜藩主である京都所司代・酒井忠義に、閲覧の許可を得るために接近していた。為恭の願いはかなえられ、『伴大納言絵詞』を模写しており、2010年にはこの模写の存在が公にされた。しかしながら、京都所司代は尊王攘夷派からすれば敵の出先機関であり、ここに出入りした為恭は佐幕派と見做されてしまった。 文久2年(1862年)8月、為恭は過激な尊王攘夷派から命を狙われ、逃亡生活が始まる。願海がいる紀伊国の粉河寺に逃れ9か月潜伏、名も「心蓮光阿」と僧侶風に改め、寿碑(生前の墓)を立てるなど隠蔽に努めた。しかし尊王攘夷派の追跡は厳しく、堺から大和国丹波市(現在の天理市)の内山永久寺に逃れるが、追っ手が迫りさらに逃亡するも、元治元年5月5日、非常に近所の丹波市郊外の鍵屋辻で、長州藩の大楽源太郎らによって捕縛、殺害された。享年42。 弟子は多かったと言われ、従兄弟の田中有美、庄内地方に多くの作品が残る市原円潭など。
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