酒株改め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって製造・卸売の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても専門問屋仲間が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく問屋の寄合いも形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。 一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の痛い問題でもあった。幕府から見れば、酒株制度には酒造石高をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年(1666年)を始めとして何回か酒株改めをおこなった。ことに元禄の酒株改め(1697年)は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年(1709年)まで酒屋には運上金も課せられた。
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酒株改め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:30 UTC 版)
幕府にとっては、酒造株高と酒造米高の格差が拡大していくことは、そのまま酒をめぐる税収の減少を意味していた。そのためそれを防ぐことが急がれ、実態を調査、把握し、適正な数値に是正するために、寛文6年(1666年)、延宝8年(1680年)、元禄10年(1697年)、天明8年(1788年)などに全国調査を行った。このことを酒株改めという。
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