辻玄哉の茶の湯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 04:46 UTC 版)
上述の1557年と1575年の両方の茶会で、玄哉は茄子形の茶入を方盆に載せて床の前に飾っている(『松屋会記』『天王寺屋会記』)。天正5年(1577年)の『天正名物記』には、玄哉が所持し、元々は紹鷗が所持していたものとして、茄子茶入の記載がある。「小壷大事」の秘伝と共に、この茶入が紹鷗から玄哉へ贈られた可能性がある。その後、肥前鍋島家、川越松平家を経て、現在は、サンリツ服部美術館が「紹鷗茄子」として所蔵している。また、大正時代の茶道具図録『大正名器鑑』に掲載されている。 また、1557年の茶会では、玄哉は「信楽水差」を使っている(『松屋会記』)。山上宗二が『山上宗二記』にて「玄哉信楽鬼桶」として、五つある名物水差のうちの一つに数えているものと同じと思われる。「鬼桶」と『山上宗二記』で呼ばれている信楽水差は他になく、信楽水差の中で現在最も評価が高い鬼桶型を、玄哉が見出したと考えられる。この水差は、元亀2年(1571年)3月2日に津田宗及が百貫文で玄哉から買い取り、その後織田信忠が所有し、本能寺の変で焼失したとされる。 その他、玄哉が所持していた籠花入と五徳二重輪蓋置を、筒井順慶が、玄哉没後の天正11年1月26日に開いた茶会で使用している(『松屋会記』)。その茶会に招かれた松屋久政は、籠のスケッチを残し、蓋置を賞賛している。 玄哉は、永禄12年(1569年)以降の織田信長による茶道具の「名物狩」を逃れていることから、前述の茄子形の茶入以外に唐物茶道具を所持していなかったとみられる。鬼桶型の信楽水差や籠花入などを見出す目利きであったにも拘らず、唐物を一つ以上は使わずにわび茶を実践し、弟子の利休に影響を与えたのではないか、と推測される。
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