趙氏の興隆
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周の穆王に仕えた名御者の造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。その後、趙氏は晋に仕え、晋の文公の側近であった趙衰(趙成子)以後大いに栄え、春秋時代末期には晋を実質的に取り仕切る大臣の家系六卿の一つになっていた。しかし宰相趙盾(趙宣子)死後、趙氏は専制を疎まれ、粛清を受け、趙盾の孫の趙武(趙文子)が再興するまで一時没落する。紀元前456年、六卿の中でも最大の勢力を持っていた智氏当主の智瑶(智襄子)が韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤(趙襄子)は、韓氏の韓虎(韓康子)・魏氏の魏駒(魏桓子)に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを示唆し、これに成功する。三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙・韓・魏の三者が分け合い、それぞれ独立した。その後紀元前403年に趙・韓・魏は正式に諸侯となる。
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