装飾など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 02:59 UTC 版)
当時コットの袖は本体とは別付けとなっていた。庶民の女性は日曜日や祝祭日の御洒落として付け袖を付けたが、貴婦人たちは好きなだけふんだんに刺繍を凝らした豪華な袖を身に付けた。袖と言っても純然たる装飾品でリボンなどで取り付けていたらしく、ルネ・ダンジューの妻イザベル・ド・ロレーヌは、宗教劇の観劇中に本人さえ気づかないまま袖の片方を盗まれている。女性のシュミーズの袖は、彼女に愛情と忠誠を捧げる騎士に貸し与えられて馬上槍試合で身につけられた。馬上試合から帰還した騎士は借り受けた袖を恭しく差しだし、貴婦人はその袖を再び身に付けた。激しい戦いによって切り裂かれて時には血の滲んだ袖を身につけることは、袖の持ち主である貴婦人が騎士からひたむきな愛情と献身を得ている証でもあった。 衣服の装飾としては、捺染と刺繍が盛んに行われた。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の妻クニグンデは白地に赤の散らし模様の服を着ており、オットー3世は「ヨハネ黙示録」の刺繍があるマントを所持していた。ハンガリー王イシュトヴァーン1世は妻のギーゼラが刺繍したマントを身に着けていた。 衣服の生地としては、ウールが中心的で、主にイングランドが高級品、フリースラント地方が一般向けの品の生産拠点であった。絹製品は非常に人気があり、絹の製法がいち早く持ち込まれたシチリア、工業生産を開始したヴェネツィアなどに続いて、14世紀の初めごろにはチューリッヒなどでも生産が始まっていた。ビロードはルッカの名産でヴェネツィアではウールの模造ビロードが生産されていた。ツィンデルと呼ばれた薄いタフタの一種、プフェラーという金襴緞子も出回っている。そのほかに、12世紀ごろから工業的生産が始まっているリンネル、オリエントから渡来して間もない木綿、両者を混織したフスティアン織などもある。
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