自害か病死か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:08 UTC 版)
平田は藩への多大な負担の責任を取り自害したとされる。だが話の元になっている史料は、明治23年(1890年)に発行された治水協会刊行の『治水雑誌』創刊号であり、それ以前の史料には自刃の記録は無いとされている。同誌によると、自害した薩摩藩士は45人にのぼり、安龍院(後に廃寺)で埋葬された「平田某」もその一人だった。明治33年(1900年)、三重県戸津村(多度町を経て桑名市)の西田喜兵衛の運動で、薩摩藩士を讃える「宝暦治水之碑」が建立されたが、同碑では「平田某」は平田靱負とされた。これは、平田靱負が大黒寺に葬られたことを見落としたために生まれた誤解だった。西田は明治40年(1907年)に自費出版した『濃尾勢三大川宝暦治水誌』で、靭負の墓所を大黒寺と訂正したが、自害説はそのまま残った。 それどころか「島津氏世録正統系図」には、「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」とあり従来の美談が作られたとする説も存在している。 ただ同時代の公式記録に自刃という出来事を載せないという主張も存在しており、さらに検証が必要である。
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