絲漢堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 22:35 UTC 版)
橋本が従事していた小石元俊と間重富が相次いで大阪を離れると、寛政8年(1796年)頃、独立して医師を開業した。享和の初めのころ、居を移し、蘭学塾「絲漢堂」(しかんどう)を開いた。このころ『喝蘭新訳地球全図』を出版した。 寛政12年(1800年)、門弟の伏屋素狄、各務文献、大矢尚斎などと共に霞島の刑場で女刑屍の解剖を行った。この時の解剖図は各務文献、大矢尚斎が「婦人内景之略図」として詳細に書き残された。 その後、『蘭科内外三法方典』の執筆にとりかかり、文化元年(1804年)から文化10年(1814年)までに六巻を上梓した。序文は大槻玄沢が寄せ、本草・薬方・製薬・治病・奇方秘術などの各部に分かれている。
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