石井研堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/31 05:57 UTC 版)
石井 研堂(いしい けんどう、本名:民司(たみじ)[2]、1865年8月14日(慶応元年6月23日)- 1943年(昭和18年)12月6日[3])は、日本の編集者、著作家[4]。明治初期の「窮理熱」という近代科学啓蒙の時代に、小学校の教員を経て『十日間世一周』や雑誌『小国民』、『理科十二ヶ月』などの少年雑誌の編集に携わり、多くの子供向きの科学読み物を書いてそのころの子どもたちに大きな影響を与えた[5]。明治41年、彼は『明治事物起源』を出版し、文明開化の歴史が色あせないうちに明治文化の研究に邁進した[6]。彼は明治文化研究会の設立に関わり、錦絵の研究など、民間の文化史家として知られた[2][3]。
- ^ 瀬田貞二 1978.
- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『石井研堂』 - コトバンク
- ^ a b 朝日日本歴史人物事典『石井研堂』 - コトバンク
- ^ 世界大百科事典 第2版『石井研堂』 - コトバンク
- ^ 板倉聖宣 1995.
- ^ 板倉聖宣 1995, p. 39.
- ^ 板倉聖宣 1995, pp. 26–35.
- ^ 山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)
- ^ a b c 郡山市立図書館.
- ^ 瀬田貞二 1978b, pp. 452–456.
- ^ 石井研堂は明治の学制によって設置された小学校の第一期生だった(板倉聖宣、1995、p.8)
- ^ 当時、最上級の生徒は石井を含めてわずか8人だった。石井は当時の小学校としてはもっとも高度な教育を受けた。(板倉聖宣、1995、p.15)
- ^ 東京教育社は石井と同郷の二本松藩出身の日下部三之助が社長で、石井は同郷のつてをたどって入社したと思われる。(板倉聖宣、1995,p.15)
- ^ 1888年に日本で最初の少年雑誌『少年園』を出版していた少年園出版所の営業部に勤めていた、高橋省三が興した出版社。(板倉聖宣、1995,p.17)
- ^ 板倉聖宣 1995, p. 17.
- ^ 瀬田は明治23年としているが、板倉が国会図書館所蔵の「世界一周」の奥付きで確認したところでは明治22年で、「小国民」と同時期である。
- ^ a b 瀬田貞二 1978a, p. 428.
- ^ 開国以来に生起した一切の事項を、明治の元号の出典からステッキやカナリアの渡来に至るまで、1700の項目を簡潔に記載した社会現象の百科事典(瀬田貞二、1978a、p.429)。
- ^ 山崎 編 1992, p. 115.
- ^ a b c 佐藤洋一 2003, p. 134.
- ^ a b 佐藤洋一 2003, p. 135.
- ^ 佐藤洋一 2003, p. 136.
- ^ 福沢諭吉は明治維新まもなく「日本人の頭を文明開化するには窮理学=物理学を説くのが一番手っ取り早い」と考え『(訓蒙)窮理図解』を出版した。明治5年に学制が敷かれて新しい学校制度が始まると、それに使うことを期待してたくさんの物理学の啓蒙書が出版された。そこでこの時代を「窮理熱の時代」という。(板倉聖宣、1995,p.12)
- ^ 板倉聖宣 1995, pp. 12–13.
- ^ 板倉聖宣 1995, pp. 19–20.
- ^ 板倉聖宣 1995, p. 20.
- ^ 瀬田貞二 1978a, p. 425.
- ^ 板倉聖宣 1995, p. 18.
- ^ 板倉聖宣 1995, pp. 26–27.
- ^ 瀬田貞二 1978a, p. 426.
- ^ 板倉聖宣 1995, pp. 28–29.
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