浅草国技館
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浅草国技館(あさくさこくぎかん、旧字体:淺草國技館)は、東京府東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)にかつて存在した、相撲の興行のための施設。1912年(明治45年)に開館し[6][7][8]、両国国技館に対して「第二国技館」とも呼ばれた[13]。建物はのちに改装され、劇場「遊楽館」[9]、のちに「吾妻座」となったが[10]、1920年(大正9年)に焼失した[14][15]。本項では劇場時代についても併せて解説する。
注釈
出典
- ^ 北村(1911)205頁の奥付。
- ^ a b 原田道寛編『大正名家録』(1915年、二六社編纂局) - 26頁。
- ^ a b c d e f g h 黒田鵬心編『東京百建築』(1915年、建築画報社) - 5頁。
- ^ a b c d e f g h 北村 1911, p. 156.
- ^ a b c d e 鈴木博之・初田亨『図面で見る 都市空間の明治』(1990年、柏書房) - 120頁「浅草国技館」
- ^ a b c 東京都台東区編『台東区百年の歩み』〈台東叢書第四集〉(1968年、東京都台東区)- 326-327頁。
- ^ a b c 開国百年記念文化事業会著作権所有、編纂委員藤井甚太郎『明治文化史 第一巻 概説編』(1955年、洋々社) - 773頁。
- ^ a b c 中山泰昌『新聞集成明治編年史 第十四巻 日韓合邦期』(1940年、林泉社) - 525頁。
- ^ a b c 坂本 1952, p. 41.
- ^ a b c d 日活株式会社編『日活五十年史』(1962年)- 巻末年譜より、ノンブルなし。
- ^ a b 田中三郎『昭和十七年映画年鑑』(1942年、日本映画雑誌協会) - 「1-17」頁。
- ^ a b c 北村 1911, p. 158.
- ^ a b c 台東区 1966, p. 367-368.
- ^ a b c d e 「各地火災彙報」『保険銀行時報』1920年3月号(保険銀行時報社) - 14頁。
- ^ a b c 『読売新聞』1920年3月2日東京朝刊5頁「昨朝浅草公園の吾妻座全焼す 火元は訥子の部屋 損害額約三百万円」
- ^ a b 『読売新聞』1912年2月6日東京朝刊3頁「浅草国技館開館式」
- ^ 白鳥省吾編『工学博士辰野金吾伝』(1926年、辰野葛西事務所) - 58頁。
- ^ 北村 1911, p. 156-157.
- ^ 北村 1911, p. 157.
- ^ a b c d e 「浅草国技舘」『社会政策』1912年1月号(社会政策社) - 40-41頁。
- ^ 北村 1911, p. 155-156.
- ^ a b 藤森 1979, p. 19.
- ^ 藤森 1979, p. 18.
- ^ 藤井貞文編『明治天皇御年譜』(1963年、明治神宮社務所) - 102頁。
- ^ 日置昌一『国史大年表 第八巻』(1941年、平凡社) - 127頁。
- ^ 堀和久『浅草! フュージョンの街』(1985年、ぱる出版) - 96-97頁。
- ^ ポチ『浅草ラビリンス』(1986年、ペンギンカンパニー) - 166頁。
- ^ 坂本 1952, p. 140.
- ^ 「日活会社の設立事情」『世の中』1916年11月号(実業之世界社) - 130-131頁。
- ^ 坂本 1952, p. 143.
- ^ a b 『時事年鑑 昭和4年版』(1928年、時事通信社) - 400頁。
- ^ 『日本警察新聞』1928年8月20日14頁雑報面「借家人か失火て焼失したら借家人に損害賠償の責任ありと」
- ^ 「「吾妻座」問題 日活と松竹手打ち」『キネマ週報』1930年11月号(キネマ週報社)- 6頁。
- ^ 台東区 1966, p. 368.
- 1 浅草国技館とは
- 2 浅草国技館の概要
- 3 脚注
- 浅草国技館のページへのリンク