沮鵠とは? わかりやすく解説

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沮鵠Ju Hu

ショコク

(?~?)

広平の人《袁紹伝》。沮授の子武帝紀》。袁尚の将。

建安九年(二〇四)二月袁尚平原遠征出た隙をついて曹操は鄴を包囲した四月曹操は鄴包囲曹洪残して自ら毛城の尹楷撃破返す刀で沮鵠の守る邯鄲攻撃する。沮鵠は敗れて陥落した武帝紀》。

参照尹楷 / 袁尚 / 沮授 / 曹洪 / 曹操 / 邯鄲県 / 鄴県 / 広平郡 / 平原郡 / 毛城


沮鵠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 20:19 UTC 版)

沮 鵠(そ こく、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。冀州鉅鹿郡広平県の人。父は沮授。叔父は沮宗。

正史の事跡

姓名 沮鵠
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 冀州鉅鹿郡広平県
職官
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚
家族・一族 父:沮授 叔父:沮宗

袁尚の配下。建安9年(204年)春、袁尚は兄の袁譚を攻撃しようと図り、幕僚の審配を守備させ、沮鵠には邯鄲を預けて審配と連動させた。まもなく曹操が鄴を攻撃してきたが、容易に陥落させることができないと見て、周辺地域の掃討へと作戦転換した。同年夏、曹操軍が邯鄲を攻撃してきたため沮鵠も防戦したが、敵し得ずにまもなく陥落した。その後、沮鵠の名は史書に見当たらない。

物語中の沮鵠

小説『三国志演義』でも袁尚配下として登場し、審配の指示により邯鄲を守備する。曹操軍の張遼が攻め寄せてくると、沮鵠は出陣してこれと一騎討ちをするが、3合もせずに劣勢となって逃走したところを、張遼に弓で射られ落馬し、死亡している。

参考文献



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