気晴らしの人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
したがって気晴らしの人は、反復の人と根本的に異なっている。気晴らしの人は自分が存在論的空虚を持っているとは気づいていないので、退屈の中に何があるのかを知ろうとしない。彼は自分が充溢した存在だと思っており、存在論的に確実な存在だと思っている。しかし、ジャック・ラカンが述べているように、「自分を王だと思う人間が狂人だとすれば、自分を王と思う王もやはり狂人である」。自分はすでに深い存在であり、自分の投企によってそのことが当然にも開示されると信じているがゆえに、気晴らしの人は現在において未来を生きている。このため、(機械的)退屈が生じたとき、彼はみずからが欺瞞的であるために自身に対して誠実であることができず、たちまち意気消沈してしまうのである。
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