毛利就方とは? わかりやすく解説

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毛利就方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 13:33 UTC 版)

 
毛利就方
時代 江戸時代前期
生誕 慶長14年(1609年
死没 元禄5年7月3日1692年8月14日
改名 毛利就直→毛利就宣(就言)→毛利就方→毛利入道和岩
別名 新十郎(通称)、和岩(号)
戒名 無憂院和岩道泰
墓所 大寧寺山口県長門市深川
官位 上野介宮内少輔
幕府 江戸幕府
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 阿川毛利家
父母 父:毛利元景、母:小早川秀包の次女
兄弟 虎徳丸、就方、女(早世)、就貞、元棟、
繁沢元清、春直、女(児玉元征室)、
赤川就直、吉川正俊、繁沢就景、
赤木就武、三浦就正、就嘉、女(早世)
正室:毛利元倶の娘
就泰、女(粟屋就貞室)
養子:女(繁沢弥右衛門の娘、重見就通室)
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毛利 就方(もうり なりかた)は、長州藩の一門家老である阿川毛利家の3代当主。

生涯

慶長14年(1609年)、長州藩の一門家老を務める阿川毛利家2代当主・毛利元景の次男として生まれる。元和6年(1620年5月8日毛利秀就加冠を受けて元服し、「就」の偏諱を与えられ「就直(後に就宣、就方)」と名乗った。寛永3年(1626年12月13日、秀就から上野介官途名を与えられる。

寛永9年(1632年)、元景が死去したため、同年9月5日に家督と知行6000石を相続し、豊浦郡阿川領主となった。

寛永14年(1637年10月25日島原の乱が勃発し、翌寛永15年(1638年2月25日には、江戸から帰国し雨天のため上関に逗留していた秀就から、就方らに島原への出陣が命じられたが、3日後の2月28日天草四郎が討たれて原城が陥落したため、出陣は取りやめとなった。寛永16年(1639年2月5日宮内少輔の官途名を秀就から与えられる。

慶安3年(1650年)、朽木稙綱と兼松正直が御使として、幼少の細川綱利が藩主である熊本藩の国政監察のため熊本へ向かう途中に長州藩へ立ち寄ったため、上関での歓待を堅田就政と共に秀就から命じられた。

万治2年(1659年)、阿川八幡宮の修復を行う。寛文4年(1664年)から寛文8年(1668年)まで当職(国家老・執政)を務め、寛文8年から寛文11年(1671年)まで当役を務めた。また、寛文8年には藩財政の改善のため、干拓事業(高泊開作、王喜開作)による新田開発を行っている。

延宝4年(1676年8月21日、累年の隠居願いを藩主・毛利綱広に聞き届けられ、家督を長男の就泰に譲った。元禄5年(1692年7月3日に死去。享年84。

参考文献




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