毛内茂粛とは? わかりやすく解説

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毛内茂粛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/09 07:56 UTC 版)

 
毛内 茂粛
時代 江戸時代
生誕 元文元年(1736年
死没 文化元年6月15日1804年7月21日
別名 有右衛門、宜応、弥藤太、左衛門、茂長、伯恭
弘前藩
氏族 桓武平氏千葉氏流 毛内氏
父母 父:義巧
茂幹、石山雅朝

毛内 茂粛(もうない しげとし)は、江戸時代中期の弘前藩の武士。

生涯

宝暦8年(1758年)、父義巧が閉門となり、家督300石を継ぎ、手廻組。明和5年(1768年)に目付、同6年(1769年)に諸手足軽頭となる。安永8年(1779年)に持筒足軽頭となり、天明2年(1782年)にお役御免となった。長男茂幹に家督を譲り、隠居した。天明4年(1784年)、天明の大飢饉が発生すると、隠居の身ながら藩士の土着政策を発案し、10月11日藩主津軽信明に直談判した。深夜まで及ぶ談判は大きく感銘を与え、寛政4年(1792年)8月土着政策は実行された。そして、増館組水木村に土着した。その屋敷は「拳長亭」「拳長館」と呼ばれた。積極的に農作業に励み、死ぬまで晴耕雨読の生活を続けた。菅江真澄などとも親交があった。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社



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