武部小四郎とは? わかりやすく解説

武部小四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/06 00:58 UTC 版)

武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) - 明治10年(1877年5月3日)は、幕末福岡藩士勤皇家自由民権運動家。元来の姓は建部は自成。通称は小四郎、燕之允。父は建部武彦、伯父に黒田一葦(母の兄)、従兄弟に加藤堅武(父の妹の子)がいる。

経歴

尊皇攘夷派の福岡藩士・建部武彦の子として生まれる。藩校修猷館に学ぶ。父・武彦が佐幕派巻き返しにより起きた弾圧事件(乙丑の獄)で切腹となり、小四郎は家督を継ごうとしたが藩に認められなかった。小四郎は父の名の「武」の字を使い、武部と改姓して別の家を興した。

戊辰戦争において皇軍の福岡藩軍に属して功を挙げ、その後、高場乱興志塾に学び、ここで同志となる越智彦四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔頭山満進藤喜平太、奈良原至、宮川太一郎らと出会う。

1875年2月、大阪において民権の確立を目指した愛国社創立集会が開催され、板垣退助率いる土佐立志社の主唱に応じ、越智彦四郎と共に福岡を代表して参加している。その後、福岡に戻り、政治結社「矯志社」を結成。矯志社には、平岡浩太郎頭山満、進藤喜平太、宮川太一郎、阿部武三郎、林斧助、松浦愚、月成元雄らが参加し、後に箱田六輔、奈良原至も参加している。

1877年3月、西南戦争において西郷軍が熊本城を攻囲すると、慎重派の小四郎と積極派の越智は揉めに揉めたが3月27日、越智彦四郎、平岡浩太郎らと西郷呼応軍福岡党を編成して福岡城を攻撃した(福岡の変)が敗れ、政府軍の追撃をかわして逃亡を続けたが、5月2日夜、福岡上土居町において捕縛され、翌日斬刑に処せられた。享年31。辞世の句は「世の中は満れば欠ける十六夜のつきぬ名残りは露ほどもなし」

参考文献

  • 『靖国に祀られざる人々―「逆徒」と「棄民」の日本近代史(別冊宝島)』田中健之編・著、宝島社2007年
  • 『頭山満と玄洋社』読売新聞西部本社編、海鳥社、2002年
  • 『玄洋社社史』玄洋社社史編纂会、葦書房、1992年
  • 『加藤司書の周辺』成松正隆著、西日本新聞社、1997年、450ページから
  • 『近世快人伝』夢野久作著、葦書房、1995年
  • 『隻流館の挑戦』根上優著、舌間萬三宗利監修、社団法人隻流館、2003年
  • 『GHQが恐れた崎門学』坪内隆彦著、展転社、2016年
  • 進藤東洋男著『自由民権と九州地方』古雅書店(私家版)
  • 嵯峨隆著『頭山満』ちくま新書、2021年、ISBN978-480-07433-1
  • 浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6




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