橋健三
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橋 健三(はし けんぞう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉 - 1944年〈昭和19年)12月5日〉は、日本の漢学者。開成中学校校長(第5代)。夜間中学・開成予備学校(のちに昌平中学)の校長。作家・三島由紀夫の祖父。橋倭文重の父[1][2][3][4]。
注釈
- ^ 開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかである[2]。
- ^ この『蒙求』は、清少納言から夏目漱石に至るまでの日本の文学者に影響を与えたとされる故事集である[2]。
- ^ 行蔵は、横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)の銀行員で、上海やマニラの海外駐在員として働いていたが、帰国後に老父・健三が赤字経営の昌平中学に尽力する姿を見かねて、銀行から帰宅後に父の仕事を手伝っていた[2]。岡山典弘によると、行蔵の顔写真は、面長でげじげじ眉毛が印象的で、その笑顔が三島由紀夫に似ているという[2]。
- ^ 桂湖邨は、王陽明に関する論文『王詩臆見』などを著した漢学者。三島由紀夫が小説『奔馬』を執筆する際に藍本の一つとした『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった人物である[2]。
- ^ 旧加賀藩主・前田本家第16代目当主(侯爵)の前田利為には、幕末期に橋家三代が仕えた。ちなみに、橋健三の孫・三島由紀夫の小説『春の雪』には、松枝侯爵家の別邸として、王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」が登場することになる[2]。「終南別業」は鎌倉の一万坪にあまる一つの谷をそっくり占める別邸で、モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸である[2]。
- ^ 開成中学校の初代校長の高橋是清は、のちに第20代内閣総理大臣となり、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で青年将校らに暗殺された。三島由紀夫の小説『憂国』、『英霊の聲』は、二・二六事件を題材にとっている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――橋家」(越次 1983, pp. 86–100)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」(研究11 2011, pp. 112–127)。岡山 2016, pp. 9–42に所収
- ^ 「明治38年」(42巻 2005, pp. 12–13)
- ^ a b 「母の周辺・橋家」(年表 1990, p. 15)
- ^ a b c d 「生誕以前」(日録 1996, pp. 7–13)
- ^ 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)
- ^ a b c 90年史 1961
- ^ a b 岡山典弘「三島文学に先駆けた橋健行」(三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)。「第二章 三島由紀夫の先駆――伯父・橋健行の生と死」として岡山 2016, pp. 43–70に所収
- ^ 「日記 昭和16年5月11日、5月23日-30日、7月1日」。茂吉全集31 1974, pp. 283–379に所収
- ^ 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
- ^ a b c 「第一章 作家の誕生まで――両親」(佐藤 2006, pp. 23–25)
- ^ a b 芦原英了「三島由紀夫という作家」(青年座 1955年10月)。佐藤 2006, p. 24
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