東大卒業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:50 UTC 版)
1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。幼少より書道の才能があり、わずか8歳にして号を「筑紫山濤」と称し書によって家計を助けており、書の神童と言われたほどであったが、時の大阪府知事渡辺昇に書いた書を見せたところ、渡辺はそのあまりの才能を惜しみ添田の硯と落款を庭の敷石に叩き付け、書などではなく学業に専心し大成せよと諭した。これにより、添田は書の道ではなく学業によって立身することを志すことになった。上京した添田は小舟町の鰹節問屋の小僧として働きながら外国語学校の夜間部に通い、旧福岡藩主・黒田家の給費生となって東京大学予備門を経て、東京大学に入学した。東大ではフェノロサや田尻稲次郎のもとで「理財学」(経済学)を学び、1884年(明治17年)政治学理財学科を卒業した。
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