最初の和平交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 02:56 UTC 版)
ベリサリオ・ベタンクール大統領(任期1982年-1986年)の政権下でM-19指導部は紛争解決に向けてパナマでの和平交渉を提案した。しかし、M-19最高幹部のハイメ・バテマン・カジョンが1983年4月28日にパナマに向かう途中で航空機事故により事故死したため実現しなかった。1984年4月、スペインのバスク祖国と自由(ETA)と相互援助協定を締結。
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