晋陽侯姜縉
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高句麗滅亡以後、洞神祭が安東地方で俊才を抜擢するために科挙を実施していた。姜縉が650年ごろに生まれ、安東都護府を平壌に移す前の676年に科挙にトップで合格した後、太中大夫判内議令を務めている途中に晋陽侯に封ぜられた。このため、後に姜縉の子孫の姜氏は本貫を晋州(晋陽・晋山とも)とする晋州姜氏と呼称されるようになった。
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