教皇選出前
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「ピウス5世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇選出前」の解説
アントニオ・ギスリエーリはミラノに近いボスコ村(現在のボスコ・マレンゴ)で生まれた。生家は貧しく羊飼いとして生活、1518年、14歳にしてドミニコ会に入会しミケーレの修道名を授かり、ヴォゲーラ、ヴィジェーヴァノ、ボローニャなど各地の修道院で過ごし、ボローニャ大学、ジェノヴァ大学で学んだ。 1528年にジェノヴァで司祭に叙階されるとパヴィーアに移り、16年間パヴィーアのドミニコ会学院で教鞭を取り神学・哲学を教えた。彼はそこで教皇の権威の意味を再確認し、異端を弾劾する13か条の提言をまとめる中で自らの思想を明らかにしていった。院長としてギスリエーリは規律ある人物として有名であったが、自ら望んでコモの異端審問所へ赴いた。そこでの熱心な活動によって周囲の反発を招いたため、1550年にはローマへ戻り、異端審問の仕事に関わったあとで、教皇庁の食料管理の仕事についた。 そこで後に教皇パウルス4世となるカラファ枢機卿に目をかけられ、1551年に彼の推薦で教皇ユリウス3世によりローマ異端審問所長官総代理に任命された。1555年にカラファが教皇パウルス4世に選出されると出世は続き、翌1556年にストリやネーピの司教職、1557年にアレッサンドリーノの名義枢機卿、1558年にはローマ異端審問所長官というポストを得た。1560年にピウス4世の元でモンドヴィ(ピエモンテ)の司教に選ばれるが、これに反対したため、ローマの退去と異端審問官の職業権限の縮小を申し渡された。
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教皇選出前
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「マルティヌス5世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇選出前」の解説
オットーネはローマの名門コロンナ家出身で、家柄に加え有能な実務家だったことからローマ教皇ボニファティウス9世に仕え、インノケンティウス7世によって枢機卿にあげられていた。グレゴリウス12世とは対立してピサ教会会議で選出されたアレクサンデル5世とヨハネス23世の支持に回った。 1414年に神聖ローマ皇帝ジギスムントの後押しで始まったコンスタンツ公会議ではピサ教会会議の結果、出現してしまった3人の教皇達(グレゴリウス12世、ベネディクトゥス13世、ヨハネス23世)が退位あるいは廃位され、その上で1417年11月にコンクラーヴェを行った。23人の枢機卿と30人の代表たちによる選挙の結果、49歳のオットーネが選ばれ、その日の聖人の名前にちなんでマルティヌス5世を名乗った。そして1418年4月に公会議を閉会させた。
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教皇選出前
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「パウルス3世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇選出前」の解説
アレッサンドロ・ファルネーゼはトスカーナのカニーノに生まれる。母は教皇ボニファティウス8世も輩出したカエターニ家の出身であった。アレッサンドロは元々ローマやフィレンツェでウマニスタ(人文主義者)として知られ、インノケンティウス8世時代の教皇庁で頭角を現しつつあったが、妹ジュリアがアレクサンデル6世の愛人となったという事情もあり大抜擢され、1493年に枢機卿になった。 教皇クレメンス7世時代にはポルトゥスの司教枢機卿、教皇庁立大学の学長になり、クレメンス7世没後のコンクラーヴェで教皇に選出され、パウルス3世を名乗った。
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