政府総裁とは? わかりやすく解説

政府総裁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:35 UTC 版)

有栖川宮熾仁親王」の記事における「政府総裁」の解説

慶応3年1867年1月明治天皇践祚すると、幟仁親王熾仁親王父子許され謹慎解かれた。当主である父・幟仁親王謹慎解除後は政争を嫌い政治活動から距離をおいたが、明治天皇信任長州等からの人望篤い熾仁親王は、王政復古クーデター計画西郷隆盛品川弥二郎から事前に知らされる。このクーデター成功により新政府樹立され総裁議定参与三職新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁就任する明けて慶応4年1868年)、薩長度重なる挑発対し旧幕府軍はついに戦端開き鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し勅許得た西郷隆盛らに補佐れ新政府軍東海道下って行くが、この道中の早い段階で、熾仁親王恭順条件慶喜助命する方針内々固めていた。3月6日駿府城において東海道先鋒総督橋本実梁や大総督府下参謀西郷隆盛らを集めて表向きには江戸城攻撃日取り3月15日定め一方同時に秘事」として慶喜謝罪方法や、江戸城明け渡し城内兵器処分幕臣処断などの方法について方針発表している。また翌7日12日には、江戸から東征中止要請慶喜助命嘆願のために訪れた輪王寺宮公現入道親王会見し公現入道親王慶喜恭順意思を問うている。 幸い、熾仁親王進軍した東海道経路において、新政府軍一度旧幕府勢力武力抵抗遭遇することなく江戸到達し4月11日新暦5月3日江戸城無血のうちに開城される(江戸開城)。この日、慶喜は死一等免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った江戸到着後まもなく太政官制度が発足して三職廃され熾仁親王総裁職解かれた。

※この「政府総裁」の解説は、「有栖川宮熾仁親王」の解説の一部です。
「政府総裁」を含む「有栖川宮熾仁親王」の記事については、「有栖川宮熾仁親王」の概要を参照ください。

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