政府総裁
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慶応3年(1867年)1月に明治天皇が践祚すると、幟仁親王・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれた。当主である父・幟仁親王は謹慎解除後は政争を嫌い政治活動から距離をおいたが、明治天皇の信任や長州等からの人望が篤い熾仁親王は、王政復古のクーデター計画も西郷隆盛や品川弥二郎から事前に知らされる。このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する。 明けて慶応4年(1868年)、薩長の度重なる挑発に対し旧幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。西郷隆盛らに補佐され新政府軍は東海道を下って行くが、この道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていた。3月6日、駿府城において東海道先鋒総督の橋本実梁や大総督府下参謀の西郷隆盛らを集めて、表向きには江戸城攻撃の日取りを3月15日と定める一方、同時に「秘事」として慶喜の謝罪方法や、江戸城の明け渡し、城内兵器の処分、幕臣の処断などの方法について方針を発表している。また翌7日と12日には、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮公現入道親王と会見し、公現入道親王に慶喜の恭順の意思を問うている。 幸い、熾仁親王の進軍した東海道経路において、新政府軍は一度も旧幕府勢力の武力抵抗に遭遇することなく江戸に到達し、4月11日(新暦5月3日)江戸城は無血のうちに開城される(江戸開城)。この日、慶喜は死一等を免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った。江戸到着後まもなく太政官制度が発足して三職は廃され、熾仁親王の総裁職は解かれた。
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