けいおうぎじゅく‐だいがく【慶応義塾大学】
慶應義塾大学
慶應義塾大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:28 UTC 版)
慶應義塾大学日吉キャンパスは、慶應義塾の創立75周年記念事業として1934年(昭和9年)に開設された。 1920年に私立大学として初の認可を得た慶應義塾大学は、1927年に予科を郊外に移転することを決定、その報に接した目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄両社は、日吉台の土地7万2000坪を無償で提供する用意があると申し入れたが、逆に慶應側から、一般所有者から購入する土地4万8000坪についても電鉄側が幹旋し、その価格は坪5円以内で引き渡すこと、また価格次第ではその他10万坪まで買収することなどの条件が提示された。小田原急行鉄道、箱根土地も慶應に土地の提供を申し出たこともあって、五島慶太が大学側の条件を飲むことを決定、1929年に仮契約を締結した。こうして東京横浜電鉄日吉駅東側の丘陵地が慶應に寄付されたが、駅西側の日吉台住宅地(1926年)では、日吉駅および慶應義塾大学予科の並木道の軸に合わせて、中央通り(6問幅)と左右の放射道路(4間幅)が伸ばされ、同心半八角形状の道路(3間幅)で結ばれている。環状をなす曲線道路が直線道路に置き換えられて、住宅用(約140坪)と商店用(約8坪)の不整形な画地が減された。 日吉駅東側に隣接しており、駅前からまっすぐ銀杏並木が延びている。並木道の南側には陸上競技場、北側には図書館、来往舎をはじめ大学校舎がおかれ、来往舎は第48回神奈川建築コンクールの一般建築物部門優秀賞を得ている。また、並木道の終点にある広場に面しては、創立100周年を記念して建設された日吉記念館を正面に、左右にはキャンパス開設時に建設された第一校舎(現在は慶應義塾高等学校校舎)、第二校舎が向かい合って建っている。 太平洋戦争中は日吉キャンパスが海軍に接収され、連合艦隊司令部などの海軍中枢がおかれた(日吉台地下壕)。このため、戦争末期には空襲などの戦争被害を受けた。当時の地下壕2.6キロメートルがいまも日吉キャンパス内に残っているほか、普通部近くにも2.0キロメートルの地下壕がある。戦後はアメリカ軍に接収された。
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「慶応義塾大学」の例文・使い方・用例・文例
- 慶応義塾大学という私立大学
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