愛刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
詳細は「鵜飼派」を参照 江戸時代後期、山田浅右衛門吉睦の『古今鍛冶備考』(文政13年(1830年))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は鵜飼派(うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の雲生(うんしょう)・雲次(うんじ)兄弟が打った太刀を愛刀としていたという。鵜飼派は、備前国宇甘郷(うかいごう/うかんごう、岡山県岡山市北区御津)で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工流派である。雲生と雲次は初め、長船派の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、元亨年間(1321年 - 1324年)に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという。 しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される。刀剣研究家の福永酔剣は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した。
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