張士貴とは? わかりやすく解説

張士貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 08:37 UTC 版)

張 士貴(ちょう しき、開皇6年(586年) - 顕慶2年6月3日657年7月19日))は、末からにかけての軍人。もとの名は忽峍。は武安。本貫虢州盧氏県。曾祖父は北魏の銀青光禄大夫・横野将軍の張儁。祖父は北斉の開府・車騎将軍の張和。父は隋の硤州録事参軍の張国。子は右屯衛郎将の張仁政。

経歴

百五十斤の強弓を引き、左右自在に射て的を外すことがなかったと言われる。隋の大業末年、起兵して城邑を攻掠し、「忽峍賊」と号した。大業13年(617年)、李淵が起兵すると、士貴を招き、右光禄大夫に任じた。士貴は劉文静の下で征戦に従い、熊州刺史の鄭仲達を破った。

武徳元年(618年)、李建成の東征に従って、第一軍総管となり、先鋒をつとめた。まもなく長安に召還され、通州刺史に任ぜられた。薛挙と戦って功績を挙げた。唐が建国された後、澠池王世充の部将の郭士衡らを破った。武徳2年(619年)、馬軍総管に任ぜられ、熊州を経略した。王世充の大軍と遭遇して奮戦し、功績により新野県開国公の爵位を受けた。武徳3年(620年)の劉武周との戦いにも先頭に立ち、武徳4年(621年)に洛陽が平定されると、虢州刺史に任ぜられた。

武徳5年(622年)には淮安王李神通の下で徐円朗と戦い、秦王府右庫真・驃騎将軍に任ぜられた。太子内率・右驍衛将軍を経て、貞観元年(627年)に右屯衛将軍に転じた。貞観6年(632年)、右武候将軍・鷰州道行軍総管となった。貞観7年(633年)、鷰州は龔州と改称され、右屯衛大将軍に任ぜられ、虢国公に進封された。龔州道行軍総管のまま検校桂州都督に任ぜられ、南方の少数民族の制圧にあたった。のちに夏州蘭州幽州の都督を歴任した。貞観18年(644年)、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)において遼東道行軍総管をつとめ、冠軍大将軍に任ぜられた。以後も茂州都督・雅州道行軍総管・揚州都督府長史などの職を歴任した。永徽2年(651年)、左領軍大将軍に上った。

顕慶2年(657年)、河南県顕義里の邸で死去。輔国大将軍・都督荊硤岳朗等四州諸軍事・荊州刺史の位を追贈され、昭陵に陪葬された。

伝記資料

  • 旧唐書』巻八十三 列伝第三十三「張士貴伝」
  • 新唐書』巻九十二 列伝第十七「張士貴伝」
  • 大唐故輔国大将軍荊州都督虢国公張公墓誌銘




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