岡本頼氏とは? わかりやすく解説

岡本頼氏(おかもと よりうじ) 1537~1606

岩本氏 源次兵衛尉 頼実?頼真? 主馬允 河内守
 肥後相良氏臣。名手1567年薩摩島津氏との大口の合戦においては島津勇将1人川上久朗を討つ働き見せている。軍中覚書「岡本頼氏戦場日記」を残し19歳初陣より生涯19回の合戦にて功があったという。

岡本頼氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/09 07:13 UTC 版)

 
岡本 頼氏
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文6年(1537年
死没 慶長11年11月13日1606年12月12日
改名 深水主馬→岡本頼氏
別名 頼真、通称:弥十郎、源次郎
戒名 悟了永頓
官位 主馬河内
主君 相良義陽忠房
氏族 岡本氏
父母 父:岩本隆吉
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岡本 頼氏(おかもと よりうじ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将相良氏の家臣。

略歴

先祖は菊池氏で、球磨郡永里の地頭職にあったことから永里氏を称した後、相良前続の頃、先祖が原田岩本に水田一町を賜って以後、岩本氏を名乗った。

天文6年(1537年)、岩本隆吉の子として誕生。頼氏は深水姓を賜り深水主馬と称したが、その後に岡本の領主であったことから岡本姓を名乗った。槍の名手で武勇に長け、歌道にも通じていたという。

弘治元年(1555年)の初陣から大小19の戦いに出陣、傷を被ること31ヶ所、相良氏の主要な合戦の大半に出陣して武名を挙げた。特に永禄11年(1568年)の島津氏との戦いでは菱刈氏と共に大口城を死守し、敵将の川上久朗を討ち取るという大功を挙げている。相良氏が島津氏の配下になると菱刈源兵衛隆豊、内田伝右衛門と共に島津義弘に所望され、島津軍と共に大友氏攻めに出陣し、功を挙げている。69歳のときに剃髪した。

慶長11年(1606年)、病没。




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