小早川家の相続
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天文2年(1533年)、安芸国の戦国大名である毛利元就と正室の妙玖夫人の三男として、安芸吉田郡山城で生まれる。幼名は徳寿丸。 天文10年(1540年)3月に竹原小早川家の当主・小早川興景が銀山城攻めの最中に死去。継嗣が無かったため、竹原小早川家の重臣らは元就に対し徳寿丸を後継に求め、大内義隆の強い勧めもあり元就はこれを承諾した。徳寿丸は元服し、義隆の偏諱を賜い隆景と称した。興景の妻は元就の兄興元の長女であり、それゆえに竹原家は隆景を養子に希望したものと思われる。 天文13年11月(1543年)、隆景は12歳で竹原小早川家の当主となる。 天文16年(1547年)、大内義隆が備後神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾った(神辺合戦)。この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦(坪生要害)を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。なお、この合戦に関係する感状の署名が徳寿丸から隆景に変化しており、このタイミングで元服したとされる。 一方、小早川氏の本家・沼田小早川家の当主であった小早川繁平は若年で病弱なうえ、眼病により盲目となっていた。家中は繁平派と隆景擁立派で対立し、大内義隆は尼子氏の侵攻に堪えられないのではと懸念した。天文19年(1550年)、義隆は元就と共謀し、乃美隆興・景興父子を中心とした隆景擁立派を支持。尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。そして隆景を繁平の妹(後の問田大方)に娶せ、沼田小早川家を乗っ取る形で家督を継がせることで、沼田・竹原の両小早川家を統合した。その時、繁平派の田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。なお、隆景と問田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。 隆景は沼田小早川家の本拠高山城に入城するが、翌年の天文21年(1552年)には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し、新たな本拠とする。
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