小早川家の相続とは? わかりやすく解説

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小早川家の相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:05 UTC 版)

小早川隆景」の記事における「小早川家の相続」の解説

天文2年1533年)、安芸国戦国大名である毛利元就正室妙玖夫人三男として、安芸吉田郡山城生まれる。幼名徳寿丸天文10年1540年3月竹原小早川家当主小早川興景銀山城攻め最中死去継嗣無かったため、竹原小早川家重臣らは元就対し徳寿丸後継求め大内義隆の強い勧めもあり元就はこれを承諾した徳寿丸元服し、義隆の偏諱を賜い隆景と称した。興景の妻は元就の兄興元長女であり、それゆえ竹原家は隆景を養子希望したものと思われる天文13年11月1543年)、隆景は12歳竹原小早川家当主となる。 天文16年1547年)、大内義隆備後神辺城攻めたときに従軍し初陣飾った神辺合戦)。この時、隆景は神辺城支城である龍王山砦(坪生要害)を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。なお、この合戦関係する感状署名徳寿丸から隆景に変化しており、このタイミング元服したとされる一方小早川氏本家沼田小早川家当主であった小早川繁平若年病弱なうえ、眼病により盲目となっていた。家中は繁平派と隆景擁立派で対立し大内義隆尼子氏侵攻堪えられないのではと懸念した天文19年1550年)、義隆は元就共謀し乃美隆興景興父子中心とした隆景擁立派を支持尼子氏との内通疑いで繁平を拘禁し隠居出家追い込んだ。そして隆景を繁平の妹(後の問田大方)に娶せ、沼田小早川家乗っ取る形で家督継がせることで、沼田竹原の両小早川家統合したその時、繁平派の田坂全慶重臣多く粛清されている。なお、隆景と問田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏小早川本家血筋途絶えることになった。 隆景は沼田小早川家本拠高山城入城するが、翌年天文21年1552年)には沼田川挟んだ対岸新高山城築城し、新たな本拠とする。

※この「小早川家の相続」の解説は、「小早川隆景」の解説の一部です。
「小早川家の相続」を含む「小早川隆景」の記事については、「小早川隆景」の概要を参照ください。

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