寺田ヒロオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 07:07 UTC 版)
寺田 ヒロオ(てらだ ヒロオ、本名:寺田 博雄、1931年(昭和6年)8月4日 - 1992年(平成4年)9月24日)は、日本の漫画家。新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)生まれ、同県新発田市育ち。男性。新漫画党総裁。愛称は「テラ(寺)さん」。
注釈
- ^ 寺田の死後、棚下は「寺田は自分を律してたから…そして、そこからはみ出してはいけない…っていう。かなり自分の中に重圧があって、苦しんで生きてたと思うんですね。自分で自分に規律を持って、そこからはみ出してはいけない…っていう。私なんか全く反対の人間だから、それが羨ましいって彼は言うんです。逆に私は、寺田の鉄のような部分が羨ましかったんですけど、だけど寺田は私のような八方破りな生き方が羨ましい…っていう。結局、彼は自分がそういう生き方をしたいと思うことを、漫画に描いてみたかったんじゃないでしょうか。寺田は、描いてる人間に自分を同化させようとしてたところがある」と振り返っている。
- ^ この時の寺田について、藤子Ⓐは「緩慢な自殺」と述べている。またこの時期、棚下によく電話をかけていたという。電話口で泣きながら「会いたい」と言う寺田に「今すぐ行く」と伝えると「いや、来ないでくれ」「会いたいけど、来ないでくれ」と訴える状況を振り返り、棚下もまた「結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな…。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」と述べている。
出典
- ^ a b c 川本三郎「『テラさん』の残した夢『時には漫画の話を』(小学館 2012年pp.62-74)
- ^ a b c d e f g h 寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』毎日新聞社、1990年 pp.78-101「『トキワ荘』と新漫画党」
- ^ a b c “特集 寺田ヒロオ(3)「もうれつ先生」”. チンピラ☆バカ一代 (2013年10月7日). 2014年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月28日閲覧。
- ^ "寺田 ヒロオ". 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊). コトバンクより2021年9月21日閲覧。
- ^ "スポーツマン金太郎". 小学館「デジタル大辞泉プラス」. コトバンクより2021年9月21日閲覧。
- ^ “くらやみ五段”. テレビドラマデータベース. 2014年6月26日閲覧。
- ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文春文庫、2007年、106頁。ISBN 978-4167717315。
- ^ a b 伊吹隼人 『「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝』社会評論社、2010年10月1日、pp.96 - 104
- ^ “ヒストリーチャンネルオリジナル制作番組 過去放送分”. ヒストリーチャンネル. 2014年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月26日閲覧。
- ^ 鈴木伸一『アニメと漫画と楽しい仲間』(玄光社、2023年)p.181
- ^ 25年の時を経てよみがえった青春映画の名作『トキワ荘の青春』デジタルリマスター版2月12日より公開 PR TIMES. 2021年9月21日閲覧
- ^ 『寺田ヒロオ 記念企画で再注目』読売新聞2020年7月10日付朝刊文化面
- ^ 特別企画展「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ展」 2021年9月21日閲覧
- ^ スポーツ漫画の先駆者 故郷で紹介 新発田 寺田ヒロオさん展示会 2021年11月3日閲覧
- ^ マンガショップ: 検索結果 - 寺田ヒロオ 2021年9月21日閲覧
- ^ 寺田と同じ新潟県出身である。
- 1 寺田ヒロオとは
- 2 寺田ヒロオの概要
- 3 来歴
- 4 受賞歴
- 5 寺田ヒロオを演じた人物
寺田ヒロオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
寺田と手塚はトキワ莊で一緒に暮らしていた。トキワ莊に漫画家が続々と集まってくるのは、手塚が藤子不二雄の二人に14号室を譲ってからであるため、手塚は寺田と二人で住んでいた期間を「トキワ荘前史」と表している。寺田と手塚の部屋は向かい合わせだった。手塚と寺田は歳が3つほどしか違わず、手塚は寺田を「テラさん」と呼んでいた。寺田は手塚のことをこう語る「今のようにアシスタントを使って漫画を描くというスタイルは、手塚治虫さんが最初でしょう。手塚さんの登場で少年漫画の世界は革命的に変わりました。それまでは、どちらかと言えば舞台的な作り方だったのが、彼以来、映画的なものに変わってしまったんです。背景も細かく書き込むようになったし。かなり複雑なストーリーのものが漫画の世界に現れたものも手塚さん以降でしょう。」手塚は自著で寺田のことを「寺田ヒロオ氏は児童漫画にかける情熱はすさまじく、高邁な信念をもって作品を描き、『スポーツマン金太郎』や『背番号0』などの名作を出した。その信念は終始一貫変わらなかった。ぼくの尊敬する漫画家のタイプの人である」と語っている。手塚は劇画ブームの際、自身も劇画を描くなど対抗し乗り切ったが、寺田はそれができず児童漫画を貫くも、全く面識のない劇画作家(さいとう・たかを)に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。寺田の漫画は打ち切られ、寺田は自宅に引きこもりがちになる。1981年のNHK特集『現代マンガ家立志伝』で、トキワ莊メンバーが同莊会を開くという内容の番組が放送されたが、寺田は来なかった。その時、手塚は「テラさんは?」と語り寺田が来ないことを知ると、「ああ、惜しい・・」と残念がる姿が放映された。寺田はその後、トキワ莊メンバーとはほとんど会わなかったものの、1990年に自宅に旧知の仲間を呼んで宴会をした後、自室に引きこもる生活を続け、1992年に死去している。
※この「寺田ヒロオ」の解説は、「手塚治虫」の解説の一部です。
「寺田ヒロオ」を含む「手塚治虫」の記事については、「手塚治虫」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 寺田ヒロオのページへのリンク