宰相への道
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隴西郡の出身。小字は哥奴。 音律と絵画に通じ、母の兄弟の姜皎に深く愛されたと伝えられる。『李林甫外伝』によると、20歳まで書を読まず、狩猟や蹴鞠を好み、洛陽で休むことなく遊んでいた。しかし、ある日、庫部郎中であった従叔父(父の従弟)のところに赴いて、才能が認められ、官職についたと伝えられる。 開元14年(726年)、御史中丞として、御史大夫の崔隠甫・同僚の宇文融とともに科挙派の首領の張説の弾劾に加わっている。その後、刑部侍郎、吏部侍郎を歴任する。 李林甫は表面は柔和であるが、ずるがしこく計算高く、宦官や后妃の家と結んで玄宗の意を探ったために、奏上することが全て旨にかなったという。そのため玄宗から信頼されたと伝わる。 さらに、玄宗に寵愛を受けていた武恵妃と組み、その子の李瑁の後ろ盾になることを誓ったため、黄門侍郎に抜擢されたと言われる。開元22年(734年)には、礼部尚書に昇進し、宰相となる。この時、張説から科挙派の首領を継いでいた張九齢から反対があったため、張九齢と敵対することになった。しかし、李林甫は張九齢に偽って、へりくだったと伝わる。
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宰相への道
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「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の記事における「宰相への道」の解説
セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロはリスボンの小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。コインブラ大学に学び、しばらく軍に勤務した後にリスボンへ戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、ポンバル近くの領地に引きこもった。1738年にロンドン駐在ポルトガル大使に任命され、1745年からはウィーン駐在ポルトガル大使に移った。ポルトガル王妃マリア・アナはオーストリア・ハプスブルク家の出身で、カルバーリョに何かと目をかけ、彼の最初の妻が亡くなると、レオノール・エルネスタ・デ・ダウンと結婚させた。しかし、国王ジョアン5世は彼を嫌い、1749年にウィーンから召喚した。翌1750年、ジョアン5世が死去すると、新王ジョゼ1世はカルヴァーリョを好み、王太后の了解を得て外務大臣に任命した。やがて王はカルヴァーリョを全面的に信頼するようになり、国政を委ねていった。
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