宝塚運動協会
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と記しており、電鉄会社によるプロ野球リーグの構想を抱いていた。宝塚運動協会の結成はその第一歩といえるものであった。 宝塚運動協会となってからは、主将として投打の中心であった山本が肩を壊し退団(なお、山本退団後の主将は三塁手の清水鷹治郎が務めた)するというアクシデントもあったが、新たにエース投手となった大貫賢がその穴を埋める活躍を見せるなどもあってチーム力は向上していた。日本運動協会時代には相手さえしてもらえなかった慶應、明治などといった大学の野球部と互角の戦いを繰り広げたり、かつては1勝もできなかった大毎野球団に勝利するなどしている。一度三高(現・京都大学)に2-1で敗れたときなどは、その報を聞いた新聞社が「協会が三高に敗れるはずがないので聞き間違いだろう」と判断し、翌朝の新聞に「協会が2-1で勝利」という記事を載せてしまったほどである。
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