大韓帝国軍艦
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「揚武 (大韓帝国軍艦)」の記事における「大韓帝国軍艦」の解説
1903年(明治36年)4月1日、本船は軍艦としての改装工事を受けて大韓帝国に売却され、高宗により「揚武」と改名された。初代艦長は第一次官費留学生で日本の東京商船学校を卒業した愼順晟(朝鮮語版)。 大韓帝国はこれ以前の1893年に近代海軍の創設を試みて海軍士官学校を開校するなどしていたが、日清戦争中の1895年に日本によって中止を強いられていた。そのため、本船が大韓帝国軍にとって最初の近代軍艦となった。なお、日本の新聞記者の塩崎誓月によれば、「揚武」導入の目的は、1903年に予定された高宗即位40周年記念式典において各国軍艦との間で礼砲を交わすためであったという。 搭載兵装は、船首楼と船尾楼の両舷に12cm単装砲を各1基(計4門)、船橋と船尾楼の両舷に47mm単装速射砲を各1基(計4門)である。Kang (2008) によれば、売買代金は当初55万ウォンであったが、あまりに高額であるとして多くの国民から批判を受けた。交渉の末に20万ウォンに減額されたが、大韓帝国政府にはその支払も困難で、三井から毎月5,000ウォンを高利で借り入れしなければならなかった。
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