墨 (酒々井町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 14:17 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動墨 | |
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北緯35度42分45.1秒 東経140度16分41.8秒 / 北緯35.712528度 東経140.278278度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
郡 | 印旛郡 |
市町村 | 酒々井町 |
標高 | 36m |
人口 (2017年(平成29年)11月1日現在)[1] | |
• 合計 | 346人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 | 285-0913[2] |
市外局番 | 043[3] |
ナンバープレート | 千葉 |
※座標・標高は墨ふれあい館付近 |
墨(すみ)は、千葉県印旛郡酒々井町の大字。郵便番号285-0913[2]。
地理
北は酒々井、北東は尾上、東は飯積、南東は八街市八街、南は佐倉市下勝田、南西は馬橋、西は本佐倉、北西は下台に隣接している。
歴史
江戸期は墨村[4]・古沢村[5]の2村だったが、1873年(明治6年)から1889年(明治22年)は墨村である。
墨村は、下総国印旛郡のうち。佐倉藩領。村高は、「元禄郷帳」445石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに481石余。当村名主は隣村古沢村の名主も兼任した。成田街道酒々井宿の助郷村。佐倉牧捕馬の際には野馬喰草の納入が義務づけられていた。1858年(安政5年)「利根川図志」に狐捕り名人として詳記されている稲荷(とうか)藤兵衛は当村の人である。神社は六所神社、寺院は曹洞宗東伝院。1873年(明治6年)千葉県に所属。同年古沢村を合併。同年東伝院を仮校舎として墨学校が開校、1882年(明治15年)字馬場に校舎を新築移転、1885年(明治18年)尾上学校と合併し字小盛田に移転。明治22年酒々井町の大字となる[4]。
古沢村は、下総国印旛郡のうち。佐倉藩領。村高は、「元禄郷帳」445石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに481石余。江戸期を通じて隣村墨村への依存度が高く、名主も墨村名主が兼任していた。1873年(明治6年)千葉県に所属。同年墨村の一部となる[5]。
年表
世帯数と人口
2017年(平成29年)11月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
墨 | 152世帯 | 346人 |
小・中学校の学区
町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 酒々井町立酒々井小学校 | 酒々井町立酒々井中学校 |
施設
交通
道路
脚注
- ^ a b “酒々井町の人口と世帯”. 酒々井町. 2017年11月25日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月25日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月25日閲覧。
- ^ a b c 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 483頁
- ^ a b c 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 751頁
- ^ “小・中学校の通学区域”. 酒々井町 (2014年3月31日). 2017年10月25日閲覧。
関連項目
下台 | 酒々井 | 尾上 | ||
本佐倉 | 飯積 | |||
墨 | ||||
馬橋 | 佐倉市下勝田 | 八街市八街 |
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「墨 (酒々井町)」の例文・使い方・用例・文例
- そのデザイナーはそのシンボルを墨汁で派手に描いた。
- 彼女はこの墨絵が最低でも100万円はするとにらんでいる。
- その墨にはひびが入っている。
- すずりに墨を入れて筆に墨をつけて字を書きます。
- あなたはいつから墨田区に住んでいますか。
- 墨を染料として使うと面白い模様ができます。
- 焼きコルク 《まゆ墨や役者の扮装(ふんそう)に用いる》.
- 靴墨.
- 入れ墨師.
- 人の腕に入れ墨をする.
- その男は背中に裸の女の入れ墨をしていた.
- 入れ墨は決して消えない.
- その水夫は腕にいかりの入れ墨をしていた.
- 我々の事業企画は大蔵大臣の「今年末には景気はよくなる」とのお墨付きに基いています.
- 薄墨を流したような空
- 墨で書く
- 旧習を墨守する
- 墨痕いまだ乾かず
- 旧慣を墨守する
- 旧慣墨守
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