塩谷青山とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 塩谷青山の意味・解説 

塩谷青山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/13 15:12 UTC 版)

塩谷 青山(しおのや せいざん、1855年3月15日安政2年1月27日[1] - 1925年大正14年)2月2日)は明治・大正時代の漢学者。青山(せいざん)は、本名は時敏(ときとし)、は修卿(しゅうけい)。塩谷簣山(塩谷宕陰の弟で、塩谷家を継いだ)の子である[2]

生涯

塩谷宕陰の嗣子となって後を承けた簣山の子として江戸に生まれ、家学を受けたあと昌平黌に学び、維新後は芳野金陵島田篁村中村敬宇らに師事した[3]。1873年、簣山の没後、家学を継ぎ家塾で教授しはじめた[4]。1875年に内閣修史局に出仕するが翌年辞し、1984年再び修史局に戻る[4]

1889年より第一高等中学校(のちの第一高等学校)教授になり、1920年までの32年間その職にあった[3]。剣道に通じ、文武二道を奨励した[3]。気節を重んずる一高の校風は青山に負うところが多いと言われる[3]

私塾での教育

一高教授のかたわら、小石川の私塾、菁莪書院で英才を教育した[3]倉石武四郎は菁莪書院で学んだ思い出を語り[5]法制史家の瀧川政次郎は「私がこれらの書名(顧炎武の『日知録』や趙翼の『二十二史箚記』)を知ったのも塩谷時敏先生の塾に於てである」と述べている[6]三木清はその著『読書遍歴』の中で、「その時代私の読書における一つのエピソードは、塩谷温先生-その御尊父青山先生から私どもは学校で漢文を習った-のお宅に伺って『資治通鑑』を読むという小さな会に参加したことである」と青山・温親子に教育されたことをなつかしく回想している[7]

著書に「青山文鈔」「文章截錦」「漢文類別」などがある。

1925年、70歳で死去。 

家族

東京帝国大学教授、塩谷温(号は節山)は長男。

著書

脚注・参考文献

脚注

  1. ^ 塩谷青山』 - コトバンク
  2. ^ 塩家三世』〈礫荘雑話〉1940年、1頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1908831/1/8 
  3. ^ a b c d e 鹽谷 青山(しおのや せいざん) 日本漢文の世界 kambun.jp”. kambun.jp. 2024年6月15日閲覧。
  4. ^ a b 塩谷青山』 - コトバンク
  5. ^ “学問の思い出 倉石武四郎博士を囲んで”. 東方学 40. (1970). 
  6. ^ 瀧川政次郎 (1968). “佐藤誠実の律令学”. 国学院法学 (国学院大学法学会) 5 (3): 28. https://dl.ndl.go.jp/pid/2689482/1/18. 
  7. ^ 三木清『読書遍歴』1984年、391頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12230499/1/204 

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  塩谷青山のページへのリンク

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「塩谷青山」の関連用語




塩谷青山のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



塩谷青山のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの塩谷青山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS