唐への対抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:57 UTC 版)
百済・高句麗を滅ぼした後に直ちに半島統一ができたわけではなく、先立って663年4月には新羅もまた鶏林州都督府とされ文武王自身も鶏林州大都督に任じられていたように、唐は百済の故地に熊津都督府を、高句麗の故地には安東都護府を設置し、それぞれの遺臣を用いて統治させるという羈縻政策を用いようとした。こうした唐の姿勢に対抗しようとして、高句麗の宝蔵王の庶子である安勝が残存勢力とともに新羅に亡命してきたのを利用し、金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせて670年8月に高句麗王として封じた。新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させ、さらに674年9月には安勝を報徳王として再封し、旧高句麗に対する新羅の宗主権を誇示した。 安勝を高句麗王に封じたことで唐からは叱責されたが、新羅は却って旧百済領域の支配をめぐって唐との対抗姿勢を明確にし、671年には泗沘の占領と所夫里州の設置を初めとして、次々に旧百済領域を奪取していった(唐・新羅戦争)。このために674年1月には唐の高宗からは官爵を削られ、宿衛として留まっていた王弟の金仁問を新羅王に代えようとするとともに、劉仁軌らが新羅討伐に出兵することとなった。文武王は675年2月に謝罪使を派遣して一時的和平を現出したが、その後も小規模な戦闘を繰り返し、676年11月には白江河口部の伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)で唐軍に大打撃を与え、ついに唐の新羅征討と半島支配とをあきらめさせた。唐は熊津都督府・安東都護府を遼東地方に引き上げ、朝鮮半島から唐の勢力は排除されることとなった。 古くからの新羅の勢力だけでは唐への対抗が難しいことに気付いた文武王は、百済・高句麗両国の遺民を取り込んで新羅の身分制度を再編することにも努めた。旧来の新羅の身分制度は首都金城(慶州市)を中心とする京位と、地方豪族を序列化する外位との二本立てであったが、674年には外位を廃止して京位に一本化した。その前年(673年)には百済から帰属してきたものを新羅の官制に取り込んだが、百済での官制の序列に従って新羅官制の序列に組み入れ、両者の連続性を継承させようとした。また、高句麗移民に対しては安勝を保護して高句麗王、次いで報徳王として新羅の配下に冊封していたが、680年には文武王の妹を安勝に降嫁させて新羅・高句麗の王家の結合を図り、旧の三国が一体となるように努めた。
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