和平会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:01 UTC 版)
「サンドクリークの虐殺」の記事における「和平会談」の解説
1864年9月28日、州を挙げた「インディアン皆殺し政策」が進められる中、コロラド準州デンバーにある米軍のウェルド基地で、周辺のシャイアン族やカイオワ族、アラパホー族インディアンの酋長と、コロラド準州のジョン・エバンズ知事、ジョン・チヴィントン大佐ら、同地の白人高官との和平会談が開かれた。 酋長たちは一台の馬車でデンバーの町にやって来た。周辺では苛烈なインディアンと白人の殺し合いが続いていたが、デンバーの白人たちの何人かは家の外まで出てきて彼らを出迎えた。シャイアン族からはモケタヴァト(ブラック・ケトル)、ホワイトアンテロープ、ラーンベアー、リトルウルフ、トールベアーの5酋長が出席した。 和平協議では、インディアンによる襲撃について白人側から抗議が出され、シャイアン族の酋長の一人ブラックケトルは白人たちに対し、「自分は心から白人との平和を願っているし、血気にはやる若い戦士たちを抑えられなかったことは残念に思う。今後そういうことのないよう、出来るだけ努力する」と答えた。 彼ら酋長たちは、彼らのバンド(集団)を説得して、実際に以後アーカンソー川沿いの米軍のライアン基地近くへ異動させた。駐屯地の白人指揮官らは彼らに食糧を与え、「どこか遠くの狩りで暮らせる場所へ移れ」と命令した。ブラックケトルの属するシャイアン族の集団は、サンドクリークの湾曲する流れのそばにティーピーを建て、野営を築いた。ブラックケトルとホワイトアンテロープらは彼らの部族員と協議を行った。交戦派の意見が優勢だったが、一部は和平派のブラックケトルに賛同し、この和平派の野営に残った。
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