即位まで(115年 - 125年)
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「順帝 (漢)」の記事における「即位まで(115年 - 125年)」の解説
安帝と側室の李氏との間の子として生まれるが、安帝の皇后の閻姫は嫉妬深い人物で、李氏は殺害されてしまった。 永寧(120年)に皇太子に立てられるが、閻皇后や安帝の側近グループの宦官の讒言により、延光3年(124年)に廃されて済陰王となる。 翌延光4年(125年)3月に安帝が巡察で突然に死去し、閻太后と王聖(安帝の乳母)や大長秋江京ら安帝側近グループによる北郷侯劉懿(少帝)擁立が行われるが、劉懿も急死した。閻太后と車騎将軍の閻顕は江京ら親閻氏派の宦官らと謀り、喪を伏せつつ別の諸王の子の擁立を企てた。反閻氏派の宦官孫程ら19名は11月の地震に乗じてクーデターを起こし、閻顕や江京ら閻氏派の勢力を一掃し、劉保を擁立し帝位に就けた。 即位した順帝は閻顕らの処刑を実行し、少帝を王の礼をもって葬った。司空の劉授が免職となった。12月に陶敦が司空に任命された。
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即位まで(誕生説話)
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『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。 倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。
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