北条霞亭とは? わかりやすく解説

ほうじょう‐かてい〔ホウデウ‐〕【北条霞亭】

読み方:ほうじょうかてい

[1780〜1823]江戸後期漢詩人志摩の人。名は襄。字(あざな)は子譲・景陽。亭は号。京都皆川淇園(きえん)に、江戸で亀田鵬斎(ほうさい)に学ぶ。備後菅茶山招かれ廉塾塾頭次いで福山藩藩儒となる。著作に「霞亭摘藁」「亭渉筆」など。


北条霞亭

作者森鴎外

収載図書北条霞亭―森鴎外全集 9
出版社筑摩書房
刊行年月1996.6
シリーズ名ちくま文庫


北条霞亭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 06:39 UTC 版)

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北条霞亭
ヒト
性別男性 
国籍日本 
生年月日2 10 1780 
出生地磯部町的矢 
死亡年月日21 9 1823 
死亡地江戸 
埋葬地真性寺 
職業学者 
勤務先備後福山藩 
読み仮名ほうじょう かてい 
師匠皆川淇園亀田鵬斎菅茶山 

北条 霞亭(ほうじょう かてい、安永9年9月5日1780年10月2日) - 文政6年8月17日1823年9月21日))は、江戸時代の漢学者志摩的矢出身。名は譲。字は子譲、士譲、景陽、通称は譲四郎。霞亭の他に天放生の号を用いた。

経歴

儒医北条道有の長男として誕生したが、家督を弟に譲って各地を遊学し、皆川淇園・広岡文台に師事したり、亀田鵬斎の塾に寄寓するなどして知識を深めた。文化5年(1808年)には的矢に帰郷し、隣国伊勢にある林崎書院で講義をした。

文化10年(1813年)に菅茶山の門人となり、その私塾の監督を委任され、やがて茶山の姪敬を娶った。文政2年(1819年)には備後福山藩に招聘され、藩校弘道館で講釈に励んだ。翌年には江戸に移り定住することとなったが、この頃から病気がちとなり文政6年(1823年)に没した。墓所は巣鴨真性寺にあり、墓碑は頼山陽が記した[1]

鼻梁が高く眼光の鋭い面貌で、狷介で頑固一徹な人となりであったという。

伝記

  • 森鷗外『北条霞亭』(新版「鴎外歴史文学集 第10・11巻」岩波書店)、小川康子・興膳宏による詳細な注・解説

脚注

  1. ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):268ページ

参考文献

  • 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506pp.

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