ほうじょう‐かてい〔ホウデウ‐〕【北条霞亭】
北条霞亭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 06:39 UTC 版)
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性別 | 男性 |
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国籍 | 日本 |
生年月日 | 2 10 1780 |
出生地 | 磯部町的矢 |
死亡年月日 | 21 9 1823 |
死亡地 | 江戸 |
埋葬地 | 真性寺 |
職業 | 学者 |
勤務先 | 備後福山藩 |
読み仮名 | ほうじょう かてい |
師匠 | 皆川淇園、亀田鵬斎、菅茶山 |
北条 霞亭(ほうじょう かてい、安永9年9月5日(1780年10月2日) - 文政6年8月17日(1823年9月21日))は、江戸時代の漢学者。志摩的矢出身。名は譲。字は子譲、士譲、景陽、通称は譲四郎。霞亭の他に天放生の号を用いた。
経歴
儒医北条道有の長男として誕生したが、家督を弟に譲って各地を遊学し、皆川淇園・広岡文台に師事したり、亀田鵬斎の塾に寄寓するなどして知識を深めた。文化5年(1808年)には的矢に帰郷し、隣国伊勢にある林崎書院で講義をした。
文化10年(1813年)に菅茶山の門人となり、その私塾の監督を委任され、やがて茶山の姪敬を娶った。文政2年(1819年)には備後福山藩に招聘され、藩校弘道館で講釈に励んだ。翌年には江戸に移り定住することとなったが、この頃から病気がちとなり文政6年(1823年)に没した。墓所は巣鴨の真性寺にあり、墓碑は頼山陽が記した[1]。
鼻梁が高く眼光の鋭い面貌で、狷介で頑固一徹な人となりであったという。
伝記
脚注
- ^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):268ページ
参考文献
- 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506pp.
外部リンク
- 森鴎外の『北条霞亭』 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
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固有名詞の分類
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