包囲戦の重要性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:39 UTC 版)
「コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の記事における「包囲戦の重要性」の解説
コンスタンティノープルは、東ローマ帝国の中枢であった。もしここが落ちれば、残る東ローマ帝国領が統一性を保てたとは言い難く、簡単にアラブ人の餌食になってしまっただろうと考えられている。一方でアラブ人にとっても、コンスタンティノープル攻略に失敗したというのは重大な事件だった。コンスタンティノープルへの遠征は、661年からムアーウィヤが着実に積み重ねてきた軍事的勝利の最高点であった。このためにウマイヤ朝は、巨大な海軍の創設を含めて莫大な資源を投入してきた。それゆえに包囲戦の失敗の影響は甚大で、カリフの威信にも大きな傷がついた。逆に、東ローマ帝国の名声は新たな絶頂期を迎えようとしていた。コンスタンティノス4世の元にはアヴァール人やバルカン半島のスラヴ人などの使節が来訪して祝賀を述べ、東ローマ帝国の覇権を認めた。その後東ローマ帝国は和平を勝ち取り、帝国が望んでいたアナトリア襲撃の停止も実現したことで、東ローマ帝国はこれまでの数十年の大動乱とは打って変わった安定を取り戻すことができた。
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