劉諶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 04:37 UTC 版)
劉諶 | |
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北地王劉諶 | |
蜀漢 北地王 | |
出生 | 生年不明 幽州涿郡涿県 |
死去 | 炎興元年(263年)11月 益州蜀郡成都県 |
拼音 | Liú Chén |
主君 | 劉禅 |
劉 諶(りゅう しん/りゅう じん)は、中国三国時代の蜀漢の皇族。2代皇帝である劉禅の五男[1]。本貫は幽州涿郡涿県[2]。
生涯
炎興元年(263年)11月、魏の鄧艾の軍勢が迫り、劉禅は降伏を決意。劉諶はこれに反対して、「理が窮し、力が屈し、敗北が必至ならば、父子君臣は城を背にして一戦を交え、社稷と共に死し、(あの世で)先帝(劉備)にまみえるべきではありませんか」と述べたが、劉禅は従わずに国を挙げて降伏した。劉諶はこの日の内に、劉備の廟において哭し、先に妻子を殺してから、自身も自殺を遂げた[4]。
三国志演義
羅貫中の小説『三国志演義』では、劉禅の他の6人の子は懦弱だったが、劉諶だけは聡明・英敏な人物と称えられる。史実以上に魏への降伏に強く反対するが、劉禅によって宮門から追い出される。帰宅して崔夫人[5]に自害の決意を語ると、彼女はこれを「賢哉」と称え、先に柱に頭を打ち付けて自殺。劉諶はさらに3人の子供を殺した後、劉備の廟において自刎し、家族の後を追った[6]。
脚注
- ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 劉璿伝注『蜀世譜』 s:zh:三國志/卷34#後主太子_璿
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝記載、祖父の劉備の本貫。s:zh:三國志/卷32
- ^ 『三国志』蜀書 後主伝 s:zh:三國志/卷33
- ^ 司馬光『資治通鑑』魏紀10 s:zh:資治通鑑/卷078
- ^ 史書上では妻の名は不詳。
- ^ s:zh:三國演義/第118回
劉諶
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「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「劉諶」の解説
劉禅の子。魏に対し降伏を唱える劉禅に徹底抗戦を主張するが聞き入れられず、国を奪われることを玄徳に詫びながら妻子と共に自害した。
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