六区初の劇場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:06 UTC 版)
1884年(明治17年)に区画を街区整備して成立した「浅草公園六区」に、東京市(現在の東京都中心部)中に流行する「道化踊」の興行場を建てるべく、1887年(明治20年)5月、根岸浜吉が警視庁に申請、同年6月に許可が下り、10月1日に浅草区公園六区(現在の台東区浅草1丁目26番)に建設・開場したのが、「常磐座」である。同時に浜吉は、根岸興行部を設立した。当初のネーミングは浜吉の出身地である常磐に由来した。 浜吉は、歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を「常磐座」で興行し、そして映画を上映した。当時の常磐座での新派劇には、のちの映画監督松本英一がいた。 映画は1910年(明治43年)7月に設立された福宝堂が配給、1911年(明治43年)からは福宝堂製作の日本映画を上映した。1912年(明治45年)に浜吉が死去、浜吉の女婿・小泉丑治が根岸興行部を継ぎ、「常盤座」と改称して、劇場経営を行なった。同年(大正元年)9月10日、福宝堂が日活に統合され、日活作品が配給されることになったが、なかなか安定して作品が供給されなかった。小泉が、福宝堂の営業部長で当時日活本社営業部勤務だった小林喜三郎に苦情を伝えると、小林は日活を退社、同年12月には「常盤座」に作品を供給する会社として「常盤商会」を設立、「常盤商会日暮里撮影所」を設置した。同社が量産するサイレント映画を「常盤座」は上映したが、日活が差し止めて、翌1913年(大正2年)早々には、日活作品に切り替わった。
※この「六区初の劇場」の解説は、「常盤座」の解説の一部です。
「六区初の劇場」を含む「常盤座」の記事については、「常盤座」の概要を参照ください。
- 六区初の劇場のページへのリンク