江戸幕府の地図事業
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江戸幕府の地図事業(えどばくふのちずじぎょう)は、江戸時代に江戸幕府によって進められた国土基本図の編纂事業のこと。大きく分けて日本地図である日本図(にほんず)と諸藩に作らせた国絵図(くにえず)に分けられる。
- ^ a b “日本六十余州国々切絵図”. デジタルアーカイブ秋田県公文書館. 秋田県庁. 2017年1月26日閲覧。
- ^ 川村「江戸幕府撰日本図の編成について」(『人文地理』23巻6号、1981年)・「江戸初期日本総図再考」(『人文地理』50巻5号、1998年)など
- ^ 『定勝公御年譜』(米沢藩)寛永10年4月21日条・『梅津政景日記』(久保田藩・梅津政景)寛永10年12月8日条・城信茂(巡見使)宛細川忠利書状(『細川家史料』17-2046)『公議所日乗』(長州藩・福間就辰)寛永15年5月16日条・『済美録』(広島藩)寛永15年条など。
- ^ 佐賀藩が享保11年の佐賀城の火災で同藩の地図が焼け落ちたために幕府に上納した古い国絵図の貸出を懇願したところ、正保の地図が明暦の火災で焼失して控えと思われる物(実際は大火後の当主である鍋島光茂の時代に再提出した物と判明)しかないとの回答を幕府から得ている(『吉茂公譜』享保11年10月11日条)。
- ^ 清書が2枚あるという記述が見つかっている。
- ^ 福山市出身の元米証券メリルリンチ日本法人会長の守屋寿
- ^ “徳川吉宗命じた「幻の地図」発見”. 中国新聞 (2014年5月9日). 2014年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月10日閲覧。
- 1 江戸幕府の地図事業とは
- 2 江戸幕府の地図事業の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
享保日本図
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享保2年(1717年)幕府は勘定奉行大久保忠位を責任者とし、佐渡奉行北条氏如に対して新たな日本地図の作成を命じたが進展しなかったため、同4年(1719年)、8代将軍徳川吉宗が直々に建部賢弘を召して再訂を命じた。建部は望視(交会法)を用いて203主要地点の位置を確定していき、享保8年(1723年)に完成したが、その後享保13年(1728年)までに離島間の距離・方向を修正している。なお、この時には諸大名からは近隣の国々の山との望視の成果が求められ、国図の提出は求められなかった。これまで原図は発見されていなかったが、平戸藩主の松浦清(静山)が1785年に入手、保管していたとみられる原図が、広島県立歴史博物館に寄託された資料から発見された。測量図は縦152cm、横336cm、縮尺は1/216000、北海道の南部から九州・種子島付近まで記載されており、従前の地図に比べより正確に位置関係が記載されている。
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