リオでの既視感
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:26 UTC 版)
リオのカーニバルの季節にブラジルを訪れた三島は、熱帯の光に酔い、「はげしい青空」の下の椰子の並木を見るだけで、「久しく探し求めてゐた故郷へかへつたやうな気がした」思いを抱いた。そして、リオの古い住宅地の街路の、「ねむの並木のおとす影のほかに、寂然と真夏の日光が充ちてゐるばかりで、人の姿がなかつた」という風景を見て、突然夢の中の記憶のような不思議な既視感を覚える。その美しい静寂を極めた都会の風景は、三島の幼年時代の真夏の寝苦しい夜の夢を思い出させ、「痛切な悲哀の念」に襲われ、リオの市内電車や子供たちの風景に郷愁的な感慨を抱く。三島は「夢の中の記憶」と「現実の記憶」について、荘子の「胡蝶」の譬えや、謡曲『邯鄲』を思い浮かべながら次のように語っている。 われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまなものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡像のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。 — 三島由紀夫「南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」(『アポロの杯』) このリオでの夢のような記憶は、三島の中でふだんは折り畳まれてしまわれている「荒野」を思い起こさせ、三島文学に一貫して通じている主題「芸術=詩(現実が許容しない詩)」と共通していると佐藤秀明は考察し、佐伯彰一は、このリオの「神秘的な顕現(エピファニイ)の体験、常識的な時空の制約と限界が一息に突破されてしまう神秘の瞬間」が、のちの『豊饒の海』のテーマとなる輪廻転生や、「転身へ憧憬」を先取りするものだと指摘している。
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